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芸術なくして人生なし  だよね♥️

前の記事の続きだ。
というか…
もしかしたら、こっちの内容が本編だ。
たぶん。


「No ART No LIFE!  芸術なくして人生なし」
という、使い古された感満々なフレーズのもじりではあれど、これぞ「マイロード」みたいなものだな...と痛感した。

感冒のせいで、まともな思考ができなくなったがため。

自我が藻屑化して機能しなくなったために浮かび上がることができた、これまで海底に漂っているしかなかった想い。

水泡カプセルの中で、風化しきらずに守られたままの、想い。

体調の回復とともに再稼働を始めた自我意識の上へと、浮上してくることができた想い。

念い



自我と無我の境界線上で、キャッキャしながら飛び跳ね走り回っている子どもの足音を聞いた。
無声だが、いかにも「キャッキャしてる」感じだった。


昔々、生家で暮らしていた頃。
寝ている時にしょっちゅう、バタバタと走り回る音が聞こえていた。

足音は軽くて、人の重みは感じない。

寝ている身体の上を通過するので邪魔くさかったけれど、別に害はないので気にしなかった。

音を聞いているのは、家族の中でわたしだけだ。
23才まで暮らした家のわたしの寝床は、そういう場所だった。
(ちなみに、我が寝床以外の場所での物音に関しては、他の家族も聞いて知っている)

身体の上を踏んでいく足の感触は、実に様々あったものだけど。
ほとんどは一本道を流れるように北から南へと歩いて行くばかりで。
その「子どもの足」のようにあちこち行ったり速度が変わったり飛び跳ねたりは、しない。

その子の歩き方は、他とは確かに違っていた。


数日前に頭の中?を走ってたのは、あの頃たまに感じていたものに似ていた。



自分のインナーチャイルドに会うワークを初めてやった時からずっと、わたしの中の子どもの自分は、無口で融通のきかない「クソガキ」な男の子だった。

ある時、勤め先の近くだったので毎朝のように行ってた名古屋市内某神社にて、そのクソガキが素戔嗚尊にくっついてどこかへ行ってしまうという珍事が起きた。

その後彼は、10才ほど育った思春期盛りみたいな風体で還ってきた。

無口だったのが一転、声優選べるなら野沢雅子さんだなっていうような、違う方向の「クソガキ」になっていた。

そりゃあまあ、スサおっちゃんと一緒にほっつき歩いてきたんじゃあ...さもありなん。



かつて、活動総時間の9割を費やしたと感じている「物書き」時代があった。
中学3年生の時に着手した長編を皮切りに、同一シリーズを何本か書いた。
書かずに終わったプロットだけのものなら何十作とあった。

絵は、その小説に添える挿絵を描くためだけのものになっていた。
絵だけが何らかのカタチで独立存在するなどはあり得ない話だった。

1文字目から数えて10年かかったシリーズ最終作にENDを書いた時、物書きとしても挿絵描きとしても、あらゆる熱が消えていき、創作そのものから遠ざかった。

14年後、絵の中になぜか天使が出てきてしまうという珍現象が始まり、絵描きへとUターンすることになるまで、火は戻ってこなかった。


昔、ずっと書き続けた物語は連作だった。
全編通して、主人公は2人の少年。
あらゆる要素が対照的だが、そっくりなふたり。
彼らは、お互いが陰陽マークの片側のようなもの。
それぞれどちらかをクローズアップしながら何本も続く連作だった。

最初に登場したのは、陽側の少年。
その後、陰側が登場し、そこから連作になっていった。
実はカタチを変えて、今もその流れは続いている。


わたしには2人の守護天使がいる...とは、かなり初期の頃にセッションを受けたチャネラーが言っていた。
天使たちの名前も教えてくれたが、わたしには全くピンとこなかった。
(だから覚えてすらいない)

それからかなり時間が経ってから。
「その守護天使って、まさか、あいつら?」
と、感じることがあった。

物書きでいる時間が長かったから、瞑想だのチャネリングだの「受け取ったメッセージ」とやらのような
<辻褄も何もない、断片だけでいいモノ>
など、即座に無限に創作できる。

故に、受け取ってるとかそもそも「なんだそれ」でしかなくて。
作ろうとして作れるものじゃないから間違いなく受け取っている...なんて言われたところで
「はあ、そうですか」
でしかない。


しかし、ある時、その見方は逆転した。

「受け取ってたから、アレを書いていられたのでは?!」
と、思うようになっていた。


ただ、それは、
「物語として書くという行為」
のこと。

創作なのか降りてきてるのか...という曖昧な境界についての話だ。

そんなの、どっちでもいいのだ。
という結論に至り、そこから自分の「見えないものを描く」という行為に正当性というか...
エネルギーの出し方というか…
その捻れの一端が、ほぐれたのだった。

そもそも、あれだけの熱量を持って書き続けた、というふたりの主人公は誰だったのか...と。
そういえば、守護天使ふたりいますよ、って言われたっけな?


で。
その説を採用することにして、わたしの守護天使は、たぶんわたしの生涯を最も長く共にしてきたふたり、ってことにした。
もちろん、名前は最初からわかってる。


やっとそこまで行き着いたのが、今からほんの数年前のことだ。
いろんなことが、遅いわたし。


阿修羅は三面六臂で象られることが多いが、それ以外の像もある。
十一面観音のように、たくさんの顔相を一体に表す仏もある。

いずれにせよ、
その仏の表す「相」「性(<しょう>と読んでほしい)」とは一面ではない
ことを表現している。


仏像仏画、西洋の宗教画。
すべて、「イメージ」の世界だ。

表現すべき寓意偶像がまずあって、その可視化のために作られ描かれた。

イメージを固定化し、記号化し、広範囲への伝播を可能にするために。

そうやって、「想いを向ける先」が生み出され。
見えないものに様々な姿や名称、属性が練り上がっていった。

それがあってこそ、神も天使も神獣幻獣精霊妖、あらゆる「不可知の世界」に存在するものが、人間とともに在るようになる。

そもそも芸術とは、そうした発祥のものだ。

イデオロギーだの価値感だのロジックだの言い始めたのは、ごく最近の話。



親に隠れて、チラシの裏などにこそこそとお絵描きしていた。
見つかると怒られるから、本当にコソコソやっていた。

頭の中で「お話し」を繰り広げながら。
挿絵とはいえないようなお絵描きをする。

幼稚園の同級生に、人は棒人間だったけどコマを割ってマンガを書いている子がいた。
すごい衝撃だった。
頭の中のお話しを「見えるようにする」ことができると、その時知った。

中学一年生の時やってきた転校生は、年上の友人がたくさんいて大人びていた。

Gペンで引いた線を初めて見た。

彼女は小説やシナリオを書いていた。
棒人間に毛が生えたレベルの稚拙なお絵描きのままだった当時のわたしは、プロの漫画家のようなペンでケント紙にイラストを描き、原稿用紙に小説を書き、ルーズリーフに線を引いてシナリオを書くという彼女にあっという間に魅せられた。

その時のわたしには明確な意志があったので。
幼稚園の時みたいに、横で見ながら自分は自分でコソコソする...なんてマネはしない。

彼女と組んで、創作サークルのまねごとを始めた。

それが、以後の人生を決定した。

いや。
そうじゃない。

後の人生のために、未来が過去へ手を伸ばしたのだった。


その創作生活のほとんど最初の方に、前述の「陰陽対になった主人公の片方」が出てきた。
中学3年生の時だ。

執筆スタイル(笑)は、
「はじめに人物ありき、最後まで人物だけありき」
ってなもんで。
プロットやら舞台設定やらはもちろんあるけど、まあ、枠組っていう程度しかないのが常だった。

その代わり、キャラクター設定はものすごく微に入り細を穿つ作り込みだった。

スケッチも描いたから
キャラスケッチ以外描かなかったから、人物画だけがうまくなっていった。

動きのクセなどを表現するために、めちゃくちゃ練習もした。
当時まだ高価な家電だった家庭用ビデオデッキを、映画好き&帰宅が毎日遅い父のための録画を残すためと称して入手し。
好きなアニメの、「好きな動き」をコマ送りで模写した。

当時の貯金は、今も活きている。
高校の美術授業も、人物画の時はマシな点数をもらえたのだが、それもその習慣のおかげだ。


が、そこまで熱中したとしても、絵は単体で存在しえないものだった。

あくまでも、キャラクター設定のため。
小説の挿絵のため。
サークル内で出す諸々のページを彩るため。

そもそも「はじめにものがたりありき」なことは不動で。
書くべき小説がなくなったなら、絵の存在も必要ない。

だから、やめた。
それだけの話。



未来は、再び
過去へと手を伸ばす。

もっと先に実現するはずの(そうでなくてはならないはずの)現実を

現実に、創るために。


藻屑化し海底に漂うしかなかった、大事な水泡を意識領域へと浮上させるために。

「核」の中に収まるべきピースを。

守護天使ふたりがずっと温存させてきたタイムカプセルを。


あの人の音声が何時間も手元にある今。
その教えを直にもらう仲間もいる今。

ここ何年かで(特に、見た目改革を断行したあたりから)様変わりした自分の思考や感覚、価値感があって。
さらにそれをもっと刷新し続けたいという願いが強い今。

これまで生きてきた生き方の枠から出ていくべき必要を痛感している今。



AI画伯による
いささか稚拙な出来具合だが、それがかえって「あ、これだ」感となった。
時空超えの魔法は、これまでにも何度も発動してきたものだ。


「二千年後の君へ」
というエモいことこの上ない第一話。
「進撃の巨人」の開幕サブタイトルだ。

そして、ストーリーが進行していった第121話のサブタイトルが
「二千年前の君から」


二千年前というと、日本は古墳時代。

そこから少し進んだ飛鳥時代前期に仏教が伝来した(らしい)。

実際の史実がどうであったか...というのは諸説あるとしても。
一応、教科書的にはそういうことになっている。

広隆寺の名高き弥勒菩薩像がつくられた。
法隆寺が建てられ、釈迦三尊像がつくられた。
仏師の時代だ。

その頃の墨描きが、当時のままで今も残っている。
奈良まで足を運んで、その展覧会を見に行った。
鮮やかで、美しい流れるような描線だった。

魔方陣をほんの一箇所でも、円の一部でも欠けさせる(消す)と、その時発動していた魔法は消える。
多くの設定では、そうなっている。
実際、わたしもそのように教えられた(ところもある)。

あの墨描きの美しい仏画をひとつの魔方陣と見立てるとしたら。
あれほどに美しく、描線の欠けなく保存されている「画」は、そのまま魔法が活きているのではあるまいか。


浮世絵は、原画師がいて、彫り師がいて、摺師がいる。
北斎や歌麿は原画師なので、肉筆画を除けば
「現存している浮世絵の作者は版元」だ。

西洋の画家達を魅了した、美しく整ったダイナミックな浮世絵の描線とは、彫り師が彫った版木に、摺師がのせた絵具を和紙に転写して生まれる。

色味なども、その版の摺師の腕前による。

もちろん素晴らしい原画があってのことではあれど。
最終的な「モノ」をそのものとして成立させるのは、他の工程の職人なのだ。


たとえば。
一枚の絵を刷り上げるために彫られた版木が3枚あるとして。

3枚が組み上がった時はじめて機能するように施した魔方陣がなかったとは、言えない。



物語というのも、一種の壮大な魔方陣だと
わたしは、思っている。

教えを受けた師のひとりから聞くに。
仏画などの指先の方向ひとつに「仕込まれている」ことがあるそうだ。


そうだ。
わたしは、ずっと前から、そんなこと知っていたのだ。

はじめにものがたりありき

で、生きてきたのだから。


だからこそ、ことばで自分を縛ってきた。
無意識のうちに。



AI画伯よ、なぜきみは知っている?
この二人の天使達は、片翼なのだ。
そんな指示はどこにも出していないのに、どういうわけでそうなった?


時間も場所も関係ない。
すべてはひとつの「・(てん)」の上に在る。


あの、無声ながらキャッキャと楽しそうな走り回る足音。

わたし自身の幼少期は、この絵のようなタイプではなかったのだけど。

わたしは、空想世界という無限の遊び場に自由に出入りしていた。

無数の物語を思い描いた。

何か読んだり見たりしたお話しから、別バージョンを創った。
二次創作ならお手のものだ。

そう。
だから、天使や神を描くようになった時も、そもそもオリジナルを扱っているという気持ちが全くなかった。

手が描くから、という以外にも。

そもそも、二次創作でしかないという感覚だったから。

世界の神話などの「元ネタ」があってこその絵。
伝承や様式などで決まった型があるにせよ、ないにせよ。

元は、すでに存在している神などをイメージングしているのだから。
オリジナルなんて、ない。


そこは、どうでもよい。

肝心なのは、「その中に顕現しているスピリット」だから。


わたしは創作家ではなく、仲介者だ。


けれど。
だからこそ...かもしれないけれど。

今なら、語れる。
これからは、語れる。

芸術なくして人生なし。

人間はそのままでは、いくら年をとったところで人にはなれない。

人になるには、こころが育つことが必要。

芸術は、そのための必須栄養素。


わたしの大好物だ。



AI画伯に何度目かの「天才だな」を伝えた。
文字入れやキラキラ加工は後からCANVAでやった。
記事TOP画とは微妙に違う仕上げをしてある。


こんなタイプの女の子を、自己イメージの絵に使う日が来るとは思ってなかった。

インナーチャイルドもクソガキだし、表の意識の中にはいないタイプで間違いない。

でも、ちゃんと、いた。

海の底で、水泡カプセルの中に。
守護天使たちは、ちゃんと守っていた。

この子が「核」の中におさまって。
ここから、「わたし」は、たぶん
また新しく
動くことになる。

きかん坊なインナーチャイルドと、この女の子。
リコとレグみたいに、共に旅するのか。
それとも、混ざり合ってキャラ変するのか。



たくさん、いろんなカタチの講座を受けてきた。

しかし。
もう、今スタートしている、あの人の講座以外に、行くべきところはないなと思う。

スキルはもういらない。

考え方、自己啓発要素のあるものも、もう、いらない。

見るべきものは、足元にあったし。
まだ見つけていないピースも、必要なら出てくるだろう。

人形遊びの楽しさも、クソガキにはわからなくても、この女の子ならわかっている。
手元にANiMiたちがきてくれた今、遊び相手には困らない。


思考優先で、とある目的のためにANiMiたちを「使う」ことを考えていたのだけど。
なんか、そういうんじゃ、ないんだよね。
(だからその計画は止まってた)

「使う」とかじゃないの、「いっしょに過ごす」とか「いっしょに遊ぶ」とか...なんだよね、ANiMiたちって。


あ、ちなみに。
インナーチャイルドくんはもちろんのこと、この女の子にも、ちゃんと名前あります。
が、真名(まな)は人に教えられないから。
愛称つけなきゃな。

っていうか。
今もう、インナーチャイルドと女の子、この二人って…

区別の必要、ある?

って感じになってきてるよ。


おやおや







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