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一瞬分のチャージと、受け継がれる聖火

前の記事「気分と直感」に書いたことなのだが。

「気分」と「直感」は、まるで違ったもので。
「気分」に従うことを「直感」だと錯覚していると、本当に何も積み重なっていかない。
決まらない、進まない。

気分がよい時ほど、この「違いがわかってないことによる錯誤」で、自らを振り回すことになる。

一時的にアッパーな感覚になり、万能感みたいなものもあり、とても調子がよく感じる。
だから、「これだ!この方向が正解だ!」と、思いやすい。

けれど、それは一瞬ゲージが跳ね上がっただけの状態。
長くは続かない。

すると、テンションが下がってきた時に、
「ああ、これは自分に合ってなかったんだ」
など、思いはじめる。

「やってみたからわかったことだし、やってみてよかったな」
とすら、思いはじめる。

もちろん、それは事実ではあるのだが。
錯誤がなかったら到達できていたかもしれないポイントへの道のりが逆に開いていることを認めないための「体のいい気休め」でしかないってことも、往々にしてある。


後々になって、来た道を振り返って「正当化」に多くの言葉を費やしているとしたら。

それは、気分に左右されて動いた結果であるってことが、多いと思うべきだ。

今わたしは、そのように、確信している。

「直感」で動いたことは、多少気持ちが薄れたり、他のことに気が行ったりしても、脇道にそれたことに気付いた時「言い訳」を必要としない。

逸れたな、戻そう。

それだけで、事足りる。


実は今日も、それを実証するような出来事があった。

決めていたことを失念して、決める前の感覚に戻って進めてしまったことがあった。

思い出させてくれる人がいてくれたおかげで
「あ、しまった」
と気付くことができた。

そして、その時、正当化らしき言葉は、何も浮かんでこなかった。


気分で動くと、気分を補強する必要が出てくる。

ウソをつくと、それを固めるために更にウソをつかなくてはならなくなる...というのと、似ている。



LIVE護符セッション、というキワモノメニューをはじめた。
そのご案内ページの作り方は、

「ある分岐点」

を踏み越えた結果、できあがったものだ。

その分岐点は、直感の導きによって具体化した。

「護符を作る」
という行為そのものに対して、わたしは、いささか過敏かもしれないと感じる
「こうでなくてはならない」枠
を、持っている。

見えない世界の力を具体的に借りる、というエネルギーを結晶化させるものだから。
作る時の姿勢は、正しくあらねばならない。

そこは、当然の基礎だからいいとして。
問題は「その表出の仕方」にあった。

クソ真面目
四角四面

かといって、徹底的に一つの流派なりで基礎を叩き込んできた...みたいなことはなく。
前の記事に書いた通り、「野良」で「雑種」でしかない。

心得は多岐にわたっていても、クソ真面目さが邪魔をして、自由さはない。

と、いうことは。

能力値も、削がれているということではないのか?

本来出せるはずの力を、四角四面に押し込もうとしてきたから。
「描かれた作品」としても中途半端さがあったり。


そうしたことを考える機会が、2月3月は、続いた。

その結果。

「本来、わたしはどういう表現が好きだったのか」
に立ち戻ってみることになった。


龍や神仏、天使の絵は、手が先導して、描いていく。
わたし自身が「こうしたい」と思ったものを描いているのではない。

そういう意味では、わたしには「描きたい絵」というものは、存在しない。

心の吐露であったり、主義主張の表出であったりも、ない。

わたし自身の感情は、そこにのってこない。
淡々と、「手が描きたい線を引く」ことが、わたしの仕事だ。


でも。
わたしにも、「好きな絵柄」とか「好きな表現」というものは、ある。

そして。
「なにも自分の好みを排除しなくてはならない、なんて決まってないのでは?」
と、ある時急に、気がついた。


そうして、自分の中核に近いところにある「好み」って、どんなだろう。
と、掘り下げていった結果。

「中二病表現」

ていうのが、まさしく、それだ...って、行き着いたわけ。

そして、LIVE護符セッションの案内表現が、固まったと。


わたしは、最強の守りは「笑う」だと思っている。
そして「好き」とか「「幸せ」とか。
そうした、心の働き。

アマゾンのシャーマンは、魂を育てるのは「○○しい」という感覚だと教えてくれた。

美味しい
楽しい
美しい
愛らしい
そうした、「○○しい」が、魂を育て強くすると。

悲劇は、そこにフォーカスを当て続ける限り、悲劇だ。

けれど、視点を変えたら喜劇に変えられることも、たくさんある。

お守りは、「一瞬で、心の状態を変える」ことができるモノ。

鬱々としていても、目にしたり触れたりした時に、すっと心に光が差す。
その瞬間、「気」の入れ替えが起きる。

祓いの、瞬間だ。

だから、ある種の荒唐無稽さを纏った「中二病的表現」というものは、護符としてたいへん有効な表現だ。
...と、思うに至った。

まあ、実際に、お客様と対面して護符を作る時に、その画面に中二病っぽい絵が出てくるかどうかは、別問題だけど。

少なくとも、しかめっ面でクソ真面目な鋳型に入った感性のままでは出てこない表現が出てくるのではないかな。



これまでになく大きな分岐点を超えた…と、思う。

今後、描くもの作るものにも、徐々に反映され始めるのではないだろうか。
...とも、思う。


わたしが、創作で顕現させたいのは、希望の光だ。

泰平の世へと繋がっていくための、個人個人の内側を照らす希望。

多くの人から受け取ってきた光を、わたしの手を通して、次へと橋渡ししたい。
聖火のごとく、次々と受け継がれゆく光。

わたしが受け取った松明の火を、次の誰かへと渡す。
その人は、また次へと、その人なりの手段で、渡す。
それが、続いていく。

一瞬分のチャージで、よい。
その一瞬分のチャージが起きることで、生き延びられることもある。

それが、わたしの生きる道に見出した、大義だ。

気分が見つけたのではない。
直感が見つけた。

だから、言い訳を必要としない。

間違えたら、やり直す。
逸れたら、戻る。
ズレたら、直す。

ただ、それだけだ。

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