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祝えよ讃えよ。「いのち」は美しい

言祝ぐ/寿ぐ(ことほぐ)
という言葉が好きだ。

弥栄(いやさか)
という言葉になると、好きだけれど少し、使いにくさを感じる。
なんだか、一定の、思想的なものをはらんでくる感じがして。
けれど、この言葉は、本来とても重要なもので。
思想どうこうで使いにくいと感じてしまうのは、少し情けなくはある。

ここ最近、創作の源泉だとか、描く意味だとかいったことを言語化しなくてはならない場面が多い。

神だ仏だ龍だ…というのは、題材だ。
その題材を創作する、その原動力は、もっと別のところにあるもので。
決して、「だって来ちゃうんだから仕方ないじゃないかー!」というだけではない、もっともっと根源的なコアな駆動力というものがある。
 
はずなのだ。
だから、それを掘り起こして、言語化して、明文化をする。
人に伝えられるようにするために。

来ちゃうんだから仕方ない。
それは事実ではあるけれど。
今となっては、それは駆動力のせいぜい1割くらいだと思う。
拒否権は私にあるからだ。
嫌ならやらなければいい。
でも、描くし、創る。
そうしたいから。

では、その源泉はどこなのか?

考えをひねくりまわしても、ピンとこないもので。
そういうものは、ある時不意に、訪れる。

ああ、そうか。
私は、「いのち」というものを…それそのものを、祝いたいんだ。
言祝ぎたいのだ。
弥栄だから。

小難しい理屈なんてどうだっていい。
この世界が「存在していること、そのもの」を、祝いたい。
「世界に、あなたが存在してくれることそのもの」を。
「世界に、私が存在できていることそのもの」を。

一個人をほんの少しだけ超えたところまでしか、私には認識も理解も感知もできないのだけれど。
一個人をほんの少しだけ超えたところに、その祝がある。
だから、私は今も、神仏だの龍だのを描き、創る。

それは「人が人として在る」ことを映す鏡だから。

そこには、祝しか、ないから。

たとえ、辛苦や悲劇があったとしても。
残酷だったとしても。
それでも。

祝い、讃える。

「いのち」は、美しい。

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