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古の智慧が今なお生きる 京都くま蝉②

一夜明けた京都くま蝉2日目。
この日も、よく晴れた一日だった。
コインロッカーに荷物を預けようとして、どこにも空きがないのではと焦った、スタート。
どうにか預けることができてホッとした。
そして、いつの間にかハイテク化しているコインロッカーの仕組みにびっくり。


京都でのくま蝉が「おりられオジさん」の記事で告知された時。
空海ゆかりで、京都駅から遠くない...とくれば、もう、東寺しかないな、って思ってウキウキしていた。
東寺は、大好きだ。
立体曼荼羅の前に3時間座っていたことがあるくらい。

東寺の真正面にあるお店が貸し切られ、全員でのランチ。
自分では絶対に入らないお店だったので、ドキドキしながらも堪能した。
同じテーブルについた、くま蝉の福井、名古屋と続いて参加された方と楽しくお話しもできて、なんて素敵なスタート。
可愛い女性は大好きだ。
前にいてくれるだけで、和むし幸せ。


東寺とは、正式名は「教王護国寺」という。
真言宗の総本山だ。
世界遺産に登録されている。

あらゆるものに、意味がある。
なにげなく造られているものは、何一つない。

すべてが、仏法の光がこの世を隅々まで照らし平和に守られるようにとの願いを体現している。


仏法によって平和が守られ。
その光が、世を隅々まで照らす。

機械も動力もない時代に。
人力だけで、あれほどの建築がなされた。

五重塔の心柱構造は、スカイツリーに使われた。
ハイテクな現代にも通じる設計と技術だ。

講堂、金堂に鎮座する巨大な像は、美しさも技術も、現代人には無理だろうと思われる。
重量を支えるための構造
下から見上げた時の遠近感をしっかりおさえたバランス。
長い長い年月を、その果てまで、照らすようにと。

金箔を施してゆく行程で起きる工員の健康損失について、くまちゃんの話があった。
金箔を貼るために使う水銀によって中毒を引き起こし、亡くなっていく。

人工たちがその行程によって落命している、ということは、当時もおそらく、わかっていただろうと思う。
塗料などにも、毒性の高いものが多い。
少量ならば問題なくとも、この広さ大きさとなれば。

だが。
それがわかっていても。
だからやめる、ということは、なかった。

そこもまた、現代と事情がちがうところだな、と思う。

その頃の人々にとっては、それを呑み込んでなお、造り続ける...造り続けねばならない意味が、あったのだ。

 

わたしなんぞ。
ほんのちょっとしたミスや、想定外のトラブル発生で、あっけなく心意気がしぼんでしまうことが、しょっちゅうある。

古の偉業を前にすると、自分の甘さや力量の乏しさが痛い。

傾ける熱意と信仰の差が、痛い。


素晴らしい空気感や
静謐さ
荘厳さ

そういった、東寺のあらゆるところに根付いた「仏法の光」というもののすがすがしさ。

同行の参加者さん達がそれを楽しみ堪能する。

その様子を横目に、一緒に歩きながら。

当時、命を賭して造り上げていった人々の「信仰の力」が、刺してくるのが痛かった。

いやいや。
そうじゃない。

刺してくるのは、自分自身。

どこか中途半端さが拭えないでグズグズしている己の中の負い目のようなもの。


光で照らすのだろう?
泰平の世を創り出すためなのだろう?

はい。
その通りです。

そうだ、おまえは、この線の先に連なった、砂の一粒だ。
大きな流れへと注ぐ、水の一滴だ。


人が、連綿と紡いできた歴史の営みが。
二千年前と今を、繋いでいる。

その一部として。
一粒の砂として。
一滴の水として。

先人から受け継いだ、手が、ある。




高野山を遙拝したり
ご神酒の相伴にあずかったり
集合写真を撮ったり

楽しい時間は、あっという間に過ぎる。

くまちゃんの、ここまでのイベントで、何度も顔を合わせて仲良くなってきた人達。
解散する時は、寂しい。


最後に、チケットに含まれていた観智院を拝観した。
一度解散した後だったので、行きたい人だけで。

庭のみ、撮影が許されていた。

傾きかけの太陽が、石庭に夕方の影を落とし始めていた。


美しく整えられた石庭を撮影。
なかなかに、意味深なハロが出た。


この日
ある時に
今後、どういう作品群を創っていきたいか...というイメージを、得た。


 
1日目の記事はこちら


東寺


くまちゃん/おりられオジさん/作家・パペットカウンセラー鈴木幸一さん


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