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本の森でひなたぼっこ

 子供の頃からずっと本を読むのが大好きだった。

 本を手に取って表紙を開く。ページをめくるとそこはもう新しい世界、ココデハナイドコカだ。
 その新しい世界に一歩足を踏み出すと、私はいつも時間を忘れた。名前を呼んでも気づかないから、そんなふうになるのなら本を読むのはやめなさい、なんて怒られたこともある。
 それでも私は本を読んでいた。
 弟と年が離れていること、両親が共働きだったことから、家に一人でいる時間が長かったのも、たぶんその理由のひとつだ。
 学校の図書館で借りてきた本を読むのがとても楽しみで、帰りに転んで擦りむいた膝から血が出てるのに、そのまんまずっと本を読み続けたこともあった。

 家の本棚の一番下の段が、私の本の定位置だ。途中からだんだんと本が増え、ひとつ上の段まで侵食していった。
 上の方の段は両親の本で、字の小さな文庫本や、昔よくあった日本文学全集、世界文学全集といったような本もあった気がする。
 文庫本はミステリが多かった……ような気がする。松本清張があったのは憶えているけれど、どの本だったかまでは憶えていない。
 私が文庫本を読み始めた頃、父になにかオススメはないかと聞いたときに差し出されたのも、ミステリだった。国内ミステリで野球場で衆人環視の中選手が死ぬ、というような話だった覚えがあるけれど、当時の私はまだミステリにはあまり興味がなく、結局読まずじまいのままだ。

 子供の頃よく読んでいたのは民話、昔話や童話だ。日本のお話も海外のお話も大好きで、いまでもその手の本を見つけるとつい手が伸びてしまう。
 そしてシートン動物記。小学校の頃は、ルパン派とホームズ派があったけれど、それと同じようにシートン動物記派とファーブル昆虫記派があって、私はシートン動物記派だった。
 狼王ロボ、灰色熊の一生など、およそ子供向けとは思えない、昔の文学全集のようなハードカバーのその本を何度も何度も読み返した。

 なかでも一番好きだったのが『大きな森の小さな家』のシリーズだ。
 近年アメリカ先住民に対する記述が問題になっているけれど、その是非はさておき、このお話は私にとってはまさにココデハナイドコカだった。
『大きな森の小さな家』の主人公ローラは5歳。
 お姉ちゃんのメアリーと喧嘩をしたり、クリスマスパーティのために着飾ったお母さんが綺麗で嬉しくなったり、クリスマスのごちそうやプレゼントにわくわくしたりと、やることや考えること、感じることは私達と変わらない。けれど舞台は19世紀後半のアメリカで、食事もベッドも習慣も気候も、当時の私の知る日本の小さな世界とはまったく違うものだった。
 ローラはお風呂が大嫌いだ。それもそのはず、ローラの家のお風呂は小さなたらいで、真冬に寒さにぶるぶる震えながら一人で身体を洗わなければならない。
 ローラの髪と瞳は茶色だが、姉のメアリーは金髪に青い目。だからローラは赤いリボンでメアリーは青いリボンと決まっている。ローラは赤いリボンが嫌で嫌で、メアリーの青いリボンが羨ましくてしかたがない。だけど取り替えてつけて見たら、やっぱり青いリボンは自分には似合わなくて、ローラはぽろぽろと涙を零す。
 いつもは大きな森の中に住んでいるから、街にお出かけするのはごく稀だ。お出かけをするとお母さんは新しい布を買い、ローラたちに新しい洋服を縫ってくれる。

 ローラの物語は『大草原の小さな家』のシリーズとしてテレビドラマ化されたけれど、私は当時ドラマはあまり見たことがなかった。そして今もまだ見たことがない。
 たぶん私にとっては、ドラマで描かれる物語よりも、本として文字で綴られる物語の方がすんありと頭に入ってくるのだと思う。
『大きな森の小さな家』『大草原の小さな家』『プラム・クリークの土手で』『シルバー・レイクの岸辺で』『農場の少年』『長い冬』『大草原の小さな町』『この楽しき日々』『はじめの四年間』
 全部何度も読んだ。いまもそのあらすじを空で言えるほど、何度も何度も。
 そうしてそのお話は頭のなかで姿を得て、きらきらと動き出す。いまも動いている。

 その他に私に強烈な印象を残したのは、リーダーズ・ダイジェストだ。
 リーダーズ・ダイジェストはもとはアメリカで発行されているファミリー向けの雑誌だ。日本で発行されたリーダーズ・ダイジェストのテキストの多くは、アメリカ版の日本語訳らしい。一部日本独自のテキストもあったようだが、私はあまりよく憶えていない。

 リーダーズ・ダイジェストは父が定期購読していた。
 はじめのうちは興味がなかったけれど、夏休みで暇を持て余していたときに何となく手を伸ばした。家にある読んだことのない本の中で私でも読めそうだったのが、リーダーズ・ダイジェストだったのだ。
 そうして私はリーダーズ・ダイジェストに夢中になった。
 家にあるリーダーズ・ダイジェストの中で気になる話は全部読んだ。当時は父よりも私の方が家に帰るのが早かったから、新しいリーダーズ・ダイジェストが届くと私が先に読んでいた。帰ってから新号が届いたことに気づいた父に「俺が買ってるんだから俺が先に読む」と取り上げられたことも何度もあった。考えてみれば当たり前だ。私だって自分が買った本ならそうする。
 ただ不思議と、当時リーダーズ・ダイジェストにどんな話が載っていたのかは憶えていない。読みやすく、面白く、子供の私でもちゃんと意味がわかってついていける。すべてではないが、そんな話が多かったように思う。

 大人になってから、そういえばリーダーズ・ダイジェストって結局何だったんだろう、と思って調べたことがある。詳細は省くが、リーダーズ・ダイジェストはファミリーで読めるような内容で、オリジナル記事及び他の雑誌や本からの抜粋等から成っており、どのような話を載せるかのガイドラインがあったらしい。
 つまり乱暴にまとめてしまえば、リーダーズ・ダイジェストの編集部が定めたガイドラインに沿った内容のテキストを、さらに超訳していたと思われる。そのガイドラインが好みに合うのなら、面白くて当然だ。

 最近読んだ本に、そのリーダーズ・ダイジェストのことが書かれていた。外山滋比古さんの『新版「読み」の整理学』(ちくま文庫)だ。
『「読み」の整理学』は本そのもののことではなく、どのように本を読むかということが書かれている。そのなかに日本語版「リーダーズ・ダイジェスト」のことが出てきたのだ。
 それによると、日本語訳のリーダーズ・ダイジェストは、文体についてかなり細かい指示を受けていたという。一センテンスは原則として何字を超えないこと、といった制約だ。そこまで細かく指示を受けていたのなら、翻訳物などろくに読んだことのない小中学生でも読みやすかったのはうなずける。

 後年になって子供向けでない翻訳ものを初めて読んだとき、とにかくその読みにくさに唖然とし、結局その本を読み終えることはできなかった。
 リーダーズ・ダイジェストがあまりに読みやすかったための、もしかしたら弊害と言えるのかもしれない。
 結局その本は、違う方が訳されたものを読んだ。
 訳者さんによってこんなに違うのかと目からうろこだったので、それはそれで面白い経験だ。訳者さんによる違いを楽しむという、新たな楽しみのきっかけともなった。

 そうして子供時代からかなりの時間が経って、私は今でも本を読み続けている。
 子供の頃は、家族や親戚、そして友達と、本に書かれたココデハナイドコカが私の世界のすべてだった。
 進学や就職につれ友人が増え、世界は広がっていったけれど、ココデハナイドコカは今でも私の大切な宝物だ。
 本を読むと、世界は、ココデハナイドコカはどんどん広くなる。子供の頃何度も読み、何度も夢見た、どこまで続く大きな森のように。世界の涯てまで続く森のように。
 その大きな本の森でひなたぼっこをするように、私はこれからもずっとずっと本を読むのだ。、

#創作大賞2024 #エッセイ部門

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