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学びの忘備録:映画「えんとつ町のプペル」感想

こんにちは。ひろくまです。
西野亮廣さん監修の映画「えんとつ町のプペル」を観てきました。
ひろくまのお嫁様が珍しく大大大熱望しており、その情熱に気圧され同行。
西野さんが色んな人が思い思いに楽しむ作品とおっしゃっていましたので、その一人として書き留めていこうと思います。
せっかくなので、映画の感想と学び、自身の戒めとして残しておこうと思います。
ネタバレと感じる所がありましたらごめんなさい。

夢ってかっこいいものだと思っていないか?

本作では煙に覆われた世界から、煙の先(希望)をつかみ取る作品です。
でも、煙を覆うことには理由があり、先代の意志は理解できる部分があるわけです。
(それにしたって人を処分するのはあまりにも残酷すぎるし、裏話を聞いてより政府に嫌気がさしました。。。)
星をみんなに見せたところで、お父さんが正しかったと証明するだけで正直、町民からするとメリットはないと思います。むしろ、煙を覆った理由を考えると、リスクすぎやしないか?と感じるほど。
ここで思ったのは、夢は自分が大切にするものであって、他人のためにあるものではないのかなと。12/25の上映前のキャスト陣が語ったやりたい事、西野さんが「自分も含め、全員地味~~~」とツッコんではいたけど、それが夢の姿なのかなと思いました。
もちろん、他人が傷ついてしまうものを夢と呼んでほしくないですが。

知らないことに蓋をして、ルビッチを非難する町民を他人事だと思っていないか?

星はある、自分たちの現実世界では常識ともいえる事象です。この知識があるからルビッチに共感し、町民や政治に嫌悪感を示せているはず。では現実世界で「宇宙人はいる」と本気で言う人を自分は笑っていないでしょうか。つまり、気を緩めてしまえば自分たちは簡単に町民になりうるわけです。

小休止:神様や幽霊はいますか?

少し逸れます。ひろくまは理系人間ですが神様や幽霊はいると思っています。非科学的な事象ですが、あることも、ないことも証明できなければあると思った方が科学的だと信じてます(とはいえ、在る無しを証明したいとも思っていませんが。。。)。過去から現在までの事象が不完全だからこそ未来は進化・発展するのであって、知らない世界があるというのは人間の可能性、ひいては科学の可能性を秘めていることになるからです。
したがって、自分が知らないことに恐怖したり、蓋をしたりすることは勝手ですが、相手を非難していい理由にはならないですよね。

努力にカッコよさを求めていないか?

西野さんはこの素晴らしい作品を作るのに8年かかったとどこかの著書で書いてありました(細かい内訳はさておき)。映画製作の相場はわからないけど、8年って相当長い期間で、その期間は想像を絶する地道な作業の連続だと思います。努力については、作中の最後のブルーノ(ルビッチのお父さん)のセリフを是非聞いてほしいです。もうピンポイントで穿つ矢の如しです。このセリフが立川志の輔さんの表現力という弓で力強く引かれて放たれるわけですから、グサーッと胸に刺さります。

行動しない言い訳を探さない

夢も地味でいいと思うし、努力も地道な作業の繰り返しでカッコよくないと思えば夢を持つことにためらいは必要ないと感じるのではないでしょうか。この作品は夢が叶ってしまいましたが、叶わなくても良いとひろくまは思います。なぜなら、夢は地味なものであるし、何より未来は自分の知らない世界だからです。「努力は報われる」の通り、地道な作業は新しい発見を生み、別のカタチで夢が実現したり、はたまた新しい夢を見つけることができると思います。非科学的ですが、いい流れはいい結果にたどり着くものであってほしいです。努力は行動ですが、この行動を支えるものは何でしょうか。

夢の第一歩は自分を信じることから

ルビッチが星を夢見る理由はブルーノ(お父さん)が星を見たから。星を見るためにえんとつ掃除屋になった。やがてプペルに出会い、夢が星を見るから星を見せるに変わり、徐々に取り巻く人々を巻き込み、遂にはその夢を果たしました。えんとつ町の成り立ちから考えると、夢をかなえることはある意味リスキーとも捉えられ、実に身勝手な夢とも考えられます。それでも取り巻く人々の心を動かしたのは、星を見せたいという夢をルビッチ自身が信じて行動した、純粋な情熱であると考えます。そしてそんな純粋な情熱に対して応えたローラ(お母さん)の言葉、ウルっときました。
夢や努力にカッコよさは不要。大切なのは自分が抱いた夢を自分が信じてあげること。この一歩目を押してくれる作品でした。

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