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山本浩貴「死の投影者による国家と死」(「ユリイカ」特集=Jホラーの現在)冒頭公開

「ユリイカ」2022年9月号(特集=Jホラーの現在)にホラー論を寄稿しました。以下、冒頭部分を掲載します。全体が4万字超なので、おおよそ10分の1程度です。気になった方はご購入ください。

死の投影者(projector)による国家と死――〈主観性〉による劇空間ならびに〈信〉の故障をめぐる実験場としてのホラーについて※1

山本浩貴(いぬのせなか座)

おばけなんて ないさ
おばけなんて うそさ
けんかしたひとが
みまちがえたのさ

※2

盲点は、なまなましいありのままの変換可能性へのもうひとつの出発点とも考えられる。視神経が網膜の壁に押し入る点で、即ち、精神から目へと架かる橋のたもとで、巻き込まれた変換可能性がすっかり結び合わされるということが起るかもしれない。

――マドリン・ギンズ ※3

生の問題の解決を、ひとは問題の消滅によって気づく。

――ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン ※4

 人はこんなにも死に易く、死を知り、死を積み上げてきながら、死を生きた肉体によってしか表現できていない。ひとつに霊を知覚する肉体を通じて、またひとつに霊を演じる肉体を通じて。
 霊と呼ばれるものは実のところ死とは無関係だ。生者に死を与えたあと残る効果ではない。逆に生を生として成立させているインフラを、肉体が自己言及的に記述しようとしたとき生じる効果である。それでいて霊が自らの死したあと残存する効果として誤認されるとき、死は自らの生の限界も世界の限界も描くことなく、ただ生と世界にともに隣接する自らの行為と知覚へ毎秒殺到し、先導する法、それに沿って上演の行なわれるところの戯曲として、生と世界を際限無きループ=輪廻転生へと墜落させることになる。だからこそ望まれるのはループの外へ生と世界を投げ出すための術であり、死を生と世界のループを計算する法=戯曲としてではなく、ループに唯一置き去りにされる場として事後的に定義されるところの私によって所持可能なただの距離とするための方法である。
 霊を表現するとはすなわちループをめぐる自己言及を自らの外に意図的にレイアウトするということであり、それには私と死の定義の確立をめぐる成否の判定が伴うという点でもって、「表現」よりも「実験」こそが霊をめぐる語彙としてより正確とされるだろう。実験の結果として死は初めて肉体の前に、私に所持可能なものとして現れ得る。しかしあらためて言えば、それでも(だからこそ)人は未だ死を生きた肉体によってしか表現できていない。死を依然として画面/紙面の手前側で運搬可能、ひいてはこの私の外で制作可能なものとして馴致できていない。だからといって人の為してきた具体的な事例を遡り、選択的に把握していくことが次の一手を遠ざけるわけではないこともまた自明だろう。事実、死を定義する閉鎖(区画確定ないしそこで運用される法の制作)の技術をめぐる「実験」は、具体的な種・土地・文化・歴史の単一肉体における発露たる恐怖の情動(その発動条件)をめぐる「実験」と紐付きつつ地層の如く積み上がっているのであり、そこで「実験」の成否を計る際に用いられる私から共同への急激な上昇が放つ致命的な危うさこそが、同時に死を共同から私へ、あるいはその逆へと再度シフトさせていくために辛うじて利用可能な回路として※5、いまホラーと呼ばれるジャンルを標榜する作品ら――特に映像表現として制作されたそれら――から内的傾向を抽出しようとするいったんの根拠となるものである。

国家=劇空間

 そこではまず、物理法則をはじめとする客観的因果のもとで観測・共有することの困難な対象や出来事が、或る肉体に紐付く私的な表現(個人において観測されたもののあらわれ)として提示される。霊の出現はもちろん、時空間の変容、分身との遭遇、不可解な物音、突然の事物の落下など、原因のうまく特定できない事象を私的表現の結果として処理するよう強いる圧が発生する。次に、それら私的表現物化した対象や出来事が、私的なもののまま、由来を当の肉体から離れた場所に事後的に設定されることで、肉体(の私的表現)は能動性を奪われ、対象や出来事が自己表出する上での媒体のひとつへ陥落させられる。つまり霊的現象の原因とされていた肉体(の私的表現)もまた、さらに上位の原因がもたらす呪いの発露でしかないものとして再設定されることになる。例えば場所(異界、虚構、殺人現場、事故物件)、前世(運命)、霊の意志(私怨)、社会的・文化的規定(物語類型、性差)、メディア(ビデオカメラ、文、写真、ボイスレコーダー)等が由来として発見され、そのもとで因果は「死者に怨まれていたから霊を見た」「訪れた場所が呪われていたから呪われた」「男/女だから〜になる」「前世が…だったから〜になる」等といった言い回しを取る。呪いの発露をめぐる因果はしかし、物理法則をはじめとする客観的因果に取って代わるというよりは、客観的因果とその発露を相対的な地位へと落とすことで個々の肉体(の私)のスケールを超える。物を放せば落ちるということもまた、重力の(呪われた場所が自身を訪れたものを呪い殺すのと同じくらい)私的な一表現として扱われ、同様にこの私の些末な行為もまた、新たな法を生み出す可能性を与えられる。世界はあらゆる表現の背後に見られる法、その由来同士が遡られては相互に拮抗し、階級を更新し合い、​​新たな表現の支持体として再設定され作者に用いられあう、酷く騒がしい霊的国家=劇空間となる。ここでいちいちが由来を所持する作者のもとへと遡行されていく(表現物と見なされる)ことによる知覚的圧や、由来の拮抗・更新の激しさに、画面手前側で鑑賞する肉体における特定の情動を起動させるものとしての価値が(すなわちコンテンツの価値として)見出される傾向のある作品らを束ねる名として、ホラーはある。そしてこれは結果的には、あらゆるものを表現物として受け取らざるを得ず、ゆえにありもしない由来を即座に観測可能な情報から捏造することで異種を結合させると同時に自他を差別し自由意志を剥奪する側にまわる傾向のある人間そのものの問題、またそこからの(由来の拮抗・更新の激しさを利用した)離脱の先で辛うじて得られるところの、私から私へのほとんど死後めく知覚の質(しかしそこでも依然として残る権力勾配と恐怖の是非)について、ホラーに属そうとする作品群が検討せざるを得ないことも示している。以降、順に見ていく。

霊のprojector

 まず、自らの表現が対象や出来事による自己表出の媒体とされた肉体は、ホラーにおいて、「霊のprojector」としての役割を強いられることになる。例えば『劇場版 呪怨2』(清水崇、二〇〇三)で千春という高校生は、周囲の誰も見ていない霊をひとり見ることを通じて自身が呪われていることを表現する。あるいは「死の鬼ごっこ」(『流出封印動画5』田口清隆、二〇一五)で鬼ごっこをする四人の額に付けられた小型カメラは、自身を備えた肉体が霊に襲われているときにだけ霊を撮影する。「一緒に見ていた」(『鬼談百景』大畑創、二〇一五)の教師は一人教室の窓から運動場を見下ろすと、その視点に合わせた位置に(自死した交際相手の)霊を観る。飛蚊症のように視界には霊の位置がついてまわり、さらには運動場で遊ぶ学生がその霊に物理的に衝突する。そして霊は教師の背後(つまり死角)を訪れ、背に張り付きともに運動場を見下ろすことになる。
 霊の出現はそれを私的に観測する肉体(の所持する媒体)をまずは必要とし、同時にその肉体(の所持する媒体)が出現した霊に呪われている(=自身の外部に由来のある表現の媒体と化している)ことを指し示す。呪われた肉体とそれが周囲の環境へ私的に投影(project)する霊のカップリング。そこにおいて、まずは霊は自身を投影するprojectorがあってこそ出現を許されるものとされるが、その時点では霊はprojector個人に原因のあるただの妄想・病のあらわれと区別がつかないだろう。霊のprojectはそれを為す者にとって常に外部からの強いられの結果として経験されるが、同様に私の外部から私に行為を強いるものは霊以外にも多々あるからだ※6。ゆえに霊は、空白となった(projectをめぐる)能動性の座をひとまず奪取しつつ、自らをprojectorから自律した対象として設定するために、projectorとは別の肉体が「霊を観測する」ことの由来=対象になろうとする。すなわち自身を「呪われた観測者=projectorらによる表現」をつなぐノードとして世界に設置し直そうとするのである。このプロセスは、projectorにとっては「私の勘違い」等と認識することによる逃避の余地が、それまで自らの立っていた世界の法とともに否定され、それらの外部(としての呪い=霊の表現する法)へ曝されると同時に、projectorにおける能動性・自由意志の剥奪、その先で一律に動員され続ける地点としての死(ただし個としてのそれではなく、際限なき輪廻転生の構成要素としてのそれ)までもが用意されることを意味する

※1 本稿は二〇二〇年九月五日に開催されたイベント「雪火頌」第二回「ホラーのフィクション」(モデレーター:大岩雄典/ゲスト:仲山ひふみ、山本浩貴/会場: theca(コ本や honkbooks内))での山本の発表をもとに、大幅な加筆修正を施したものである。
※2 槇みのり作詞・峯陽作曲「おばけなんてないさ」。ただし私と共同で活動するhが覚え間違えていたものをそのまま記載する。
※3 マドリン・ギンズ「アラカワ・図形からモデルへ」瀧口修造・岡田隆彦・松岡和子訳、『アールヴィヴァン』第一号、一九八〇年、六一頁、翻訳一部改変。
※4 ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』野矢茂樹訳、岩波文庫、二〇〇三年、一四八頁。
※5 死を起点として共同を語るにあたり、李珍景『無謀なるものたちの共同体 コミューン主義の方へ』(今政肇訳、インパクト出版会、二〇一七年)での議論に触れておきたい。李珍景はハイデガーやレヴィナス、ジャン=リュック・ナンシーやブランショらが揃って展開してきた「死の共同体」論を批判している。そこで《死という出来事は、私と他人をその限界地点に出頭、すなわち〈共−出現〉(comparution)させる。それは存在するということの複数性を、〈共にあること〉(être-en-commun)を露わにする出来事だ。存在の共同性、複数で在ることは、私と他人が共に分かつ死という出来事を通じて明らかになることである。この死という出来事は計画や意志、一切の有為なことが消滅する地点、すなわち無為の地点で出現する。このような理由で、死という出来事を通じて思考される存在の共同体/共同性(communauté)は、無為の共同体/共同性なのだ。共同体/共同性とはこのような点でその成員たちに有限性を、彼らが死すべきものであることを知らせるものであり有限性の〈共−出現〉である》(四八頁)。しかし、そのようにして設定される死は《明らかに人間の、人間に限られた死である》(同)ことに問題がある。《このことは自らが死へと先駆する場合であれ、他人の死に向き合う場合であれ同様である。したがって、死を特権化する思考がいかにあがいても人間という存在を特権化するということから抜け出す道はないように見える。それはどう見ても、人間中心主義のまわりで堂々巡りをしている》(四八−四九頁)。なるほど本稿は李の言うところの《人間中心主義》的スタンスを取るものである。ただそれは、《コミューンは、人間の「死」ではなく、「人間」の死を通じて、「人間」という特権的な存在の死を通じて、思考されねばならない》(五二頁)、《コミューン主義的時間性は〔…〕死すらも生の一部にしてしまう時間性である》(五九頁)といった李の考えに同意しつつ、その実現は、私が人間であるということ自体が持つ、過渡的ながらも陰惨な執拗さこそを真正面から素材として扱い、展開・分解していくプロセスを通じてのみ果たされると考えもするからである。本稿で選択される、《フーコー的にいうなら、その生誕の日付が正確に決定しうる比較的に新たでかつ過渡的な何ものかでもある「人間」という、まったく「新しい被造物」が捏造した途方もないフィクションの装置》(蓮實重彦『ショットとは何か』講談社、二〇二二年、一八五頁)としての「映画」(や「小説」)を通じて何らかのモデルを制作しようとするスタンスもまた、同根である。
※6  例えばそれら霊とは異なる場所に霊の観測の由来を求めようとするものとして、精神分析があるだろう。注26を参照。

☆本編はこのあと以下のような節が続きます。
 
束ねと区画化
 リズムと作者の分有
 法と抵抗
 演技とメタモルフォーゼ
 差別
 距離
 信
 音


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