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「pot hole(楽器のような音)」 冒頭3000字公開 『ことばと』vol.1より

山本浩貴(いぬのせなか座)による40,000字ほどの小説「pot hole(楽器のような音)」の、冒頭3,000字ほどを、出版社の許諾のもと、公開します。
『ことばと』vol.1は書肆侃侃房より2020年4月17日発売。目次等はこちらからご覧いただけます。
また、同誌掲載の千葉雅也さんによる小説「マジックミラー」も、冒頭部分が公開されています。あわせてご覧ください。

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人間は他人を救うとおなじ次元で、
じぶんを救うというようにはできていません。
───吉本隆明

 きりんの植樹。舞台上手奥で笑ったようなあくび。遠いそこに光が当てられて、それは大きなものと指示されているだろう。首が割れ、茎のくぼみから遠くでチラシの上の牛が倒れる。舞台下手にいくらか急な斜面がある。草むらで秘密基地を作っても冬には枯れるし季節の変わり目ごとに建築業者がやってきてすべて解きほぐしてしまう。時折崩れ、毛虫だらけの道や橋を潰してしばらくは子どもらの通学路が変わるだろう。のぼれば水平な高台で顔はチワワ、体はゴールデンレトリバーのいぬをいかにも毛玉らしく眠らせる。夢のなかで地下からは静かにバケツへこぼれる水の音。斜面のふもとは川を喩える青い付箋の列が蛇行しながら舞台奥の壁まで続き、そこには小学校の百二十周年を記念して子どもらが遊びと宇宙と動物と子どもらを描いている。絵巻物のようなその前を二十五年経った今は歩かず大通りにできた歩道のほうを歩かされ、きっとここで言うところの劇場外にあたるだろうか、私はそのうちの何人かだと思おうとしてみる。全部で何人いるかを数えてみたらいい、一、二、三、四、五、六、七。私はにおいでこの場を生きている。
 舞台上にはがらくたが、とても子どもには使いこなせなさそうな、客席から見ると積み木みたいだ。モデルにされた小学校は八十年前には斜面の側にあったそうで戦争で校長先生と生徒の半数が死んだ。劇作家は小学校百三十周年の祭りでそれを調べて発表した。体育館のあちこちの壁に鳥の子用紙が貼られ、職員室でコピーし貼ったカラー写真の下に手書きの説明、紙の前には入れ代り立ち代り座る子どもら、むかしは全校生徒あわせても今のひとクラス分もいなかったんですね。下手奥の壁のとても高い位置にはその時から数えて十四年前に卒業した生徒らの顔が彫られた漆塗りのような板、そのすぐ下あたりをぐるりと囲うようにこの空間を一周する通路はキャットウォークと呼べばいいらしい入ると先生から怒られるがボールが飛んでいったらこっそり上がるし昼休みには結構みんな走っている。
 いまそこに立っているあれらはさすがに観客でなくスタッフだろうか。スマートフォンで舞台を上方から撮影しているその映像が斜面に向けて天井から投影されている。角度がついて見づらいもののWeb経由で観客のスマートフォンでも見られるようになるという。舞台上のがらくたの中にもいくつか電源のついたスマートフォンが混ざっていて、それらが写しているとされる映像もこれから投影されるもののなかに確認できると聞いた。観客席の背後にある壁には小さい窓が並び、どれも全開だと冬は寒い。例えば遠くで飼われるいぬの声、自転車のベル、時計の音、山の木々のざわざわも、ただすべてスピーカーでの模倣とも思えるはずだ。
 窓は舞台上手の壁にもひとつ小さくあいている、実はこちら側のものより大きく確かに役者も記録係のスタッフもなんとか体を滑り込ませて向こう側へ抜ける姿が上演中何度か見られることになる。その先ではきっとトイレと水と今回は使わなかった舞台装置の山とキャットウォークへの階段がひとつ。また夜の暗さで遠近感がなかったようだがよく考えると舞台上手側の壁に描かれた絵は高さ二メートルほどしかない。それでも子どもからすれば大きな絵だ、そのさらに上方は絵が描かれていないというか奥にもう一つ奥行きの狭い舞台があるそれは下手側の斜面の上にある高台ほどではない高さつまり舞台全体は「上」「中」「下」の三段がずれつつ配置されている。斜面上の「上」へは「下」からのぼるとベニヤ板が抜けたりしそうでこわいが「中」からならあって一・五メートルほどの高さなので身長さえあれば無理せず垂直によじのぼれるだろうと私は思う。大きないぬは別として。
 「中」の奥の壁には取手があり扉としてひらけそうだ。なにかが来るのだろうか? 私はすごく親しい過去として思い出しているのを起きればすぐにその親しさも含め夢だと感じるのでなくしばらくの間が常にある。それから私は夢がいま初めてそうしたかたちで現れたと勘づくようなのだ。たとえばこれはかつて私が旅行で乗ったバスそのものだと思うこと。これはかつて私が何度も繰り返し食べ吐いてきたものだと思うこと。強く仮構された親しみの距離が、まさに疑いもなくそれだと言われるとして、私はその夢が舞台のどこから思い出されたかをいまはまだ夢のように思い出せるほどには間があいていない。
 そして指定された席に置かれたテクストを読んでいる。まず地図を書いてから服作り、話し合いで家とは何かを考える。にこやかな焦り、新年早々うるさいカラスの眠り。たぬきを脱いだたぬきを可愛がってほしい。破れるのも飛ぶのもすごい好き。また鼻が痛い? 空き地は丁寧に啄んであげるとつらい声。憎みがいのあるやり直し、宇宙船の蟻が蟻を地面とするように、目をつぶって派手にガラス窓に当たってみたい。植物はひとつひとつが容器だと思う。それくらいにこの場のそれぞれが遠くまで舞台を運び込む駅、重力から外れた動きを魂と呼ぶ。塗り絵が楽しくて嘘みたい。
 それから出てくるひとが遠くで何か話すのはいつものこと。舞台は外の夜に合わせて明らかに明るくなり、斜面の裏側から出てくる緑色のけむくじゃらみたいなコートを着た髪の短い人。声は小さく、あわせていくらか整えられた日本語が上手側の天井近くの壁へ投影されているが小さくて誰が読めるのか? 丸く細めのゴシックで、思ったよりも一度に長々と。「私がゲームをしていると家の前でお母さんの車がぶつかります。ちょうどゆうくんとたかくんが怒った場所でした。「幼稚園なのに「小学一年生」を買ったらだめなんだ」私は後ろの席に座っていたでしょうか。」こうしてはじまっているようにしか今はまだ思えないが、ただ私はずっと、この先でずっと、おだやかに腕から先で紐付いて、赤い空の奥で、口にけむりを巻きつけながら笑っているのだろう。積み重なったきゅうりの味が、またそのひろさのおだやかを、思い出しては湿気たにおいに粉まみれなまま沈んでいくからずっと、すぐ忘れてずっと、貧しい健やかさだろう。
 「まだこれから本屋にもいかなくちゃいけないし、洗濯物はずっと干されたまま。扇風機の首はどこにいったの?」
 観客席側通路に立つ彼は劇場後方から転がってきたメロンを拾い上げ、ひどい段差のうちで横移動する。ずんっ、ずんっ、と大きな音がする。昼間の交差点で録音された風景の、かたわらですれ違う車はどれもでかい。
 いやいや、ぴんっ! 子どもが走る。いぬが気にする。まだそこは横断歩道ではないから。敷き詰められた土には埋めたあとがどこにもない。迷路のような砂のなかで、つま先だけが爆発的に置かれている。


(つづきは『ことばと』vol.1 紙面で!)


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