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時間

飯沼健吾は週末は当然のことながら、平日の仕事の少しの隙間にも、XやYouTubeを見る。スマホ中毒と言っていい。テレワーク中などはひどいもので、会社のメインのPCの周りにタブレットとスマホを何台か侍せ、ついでに外部モニターも2台使って、仕事をしているんだか、SNSを見ているんだか、映画を見ているんだか、YouTubeを見ているんだか分からないような状態を何時間も続け、いつの間にか終業時間になっている。終業時間になっても、普通に変わらずにこの状態を続けている。

たまに紙の本を読むが、もう集中して文字を目で追いかけることができない。が、できる限り読むようにしている。本を読むと、なんだか日々の罪悪感が薄れるような気がしていたからだった。たまにXで呟いたりもするが、友人や知人からは当然一人もフォローされておらず、フォローされていると言えば、年商何億円の社長とか、何万フォロワーの自称インフルエンサーとか、何億円運用している投資家とか、裏垢女子とかそんなクズみたいなのばかりだった。

健吾は、いくら頑張っても自分の周りにはこんな人種しか集まってこないという現実に対して、基本的に虚しさと悲しさを心に同居させていたが、それ以上に、もう諦めている。というか、それは当たり前の話なのだ。会社の仕事の労力は最小限に抑え、組織にコミットもせず、友人も少ない。本当はもっと、人のために生きたいと願っているけれど、どうしてもそれができないのだった。そういう気質がないのだ、生まれつき。だから、SNSや動画配信サービスで時間を潰し続けているだけの人生なのだった。

でも考えれば、現代はそんな人達ばかりではないのだろうか。健吾はいつもそう思う。だから社会には時間を潰すものがたくさん溢れている。新しいコンテンツがどんどん作られている。
この間、AbemaTVを見ていて、健吾は「可処分時間」という概念を知った。可処分所得という言葉は知っていたが、可処分時間という考えは初めてだった。健吾は可処分時間の全てをインターネットに注いでいる。

こんな風な生き方でいいのか分からなかったが、ほかに何をすればいいのか、このような毎日から抜け出す方法が見つからなかった。でも、これは世界中の人間の悩みなのではないだろうか。健吾はそう思う。世界中の人々の時間がインターネットに吸い取られている。当然そこにはお金が介在している。人々の時間が誰かの金に換算され続けている。自分たちが稼いだ金が時間として吸収され、その金は広告やあらゆる経済価値に換算されてどこかに吸収されていく。

「そうか、そういうことだったんだな」

ふと、健吾はそんな当たり前なことに気づいて、一人で納得したのだった。

ただそういうことに、解像度低く気づいただけで、健吾の人生は何も変わることもなかった。

家の目の前にはスーパーのLIFEがある。健吾は、毎日21時30分になると決まって見切り品を買いに行く。そろそろ時間だ。

「よっこいしょっと」

健吾は重い腰を持ち上げて、いくつかのタブレットをオフにして、iPhoneとairpodsだけを持ち、部屋のドアを開けた。健吾の毎日は続く。そして世界の人々の毎日も、同じように、大きく変化せずに、続いているのだった。

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