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擬態

どうしても仕事が進められない。

手が動かない。こんなこと自分がやる仕事じゃない、という感覚が強い。

会社のために何かをするなんていうのは、私には向いてない。パソコンを前に、飯塚明子はそう思っていた。今日だけの感覚じゃない。この会社に入社してから今に至るまでの1年強ずっと考えていた。というかよく考えたら、それは物心ついた時から感じている強い社会に対する違和感だった。

小学生の時、運動会で明子は自分のクラスを応援できなかった。勝手に割り当てられたクラスという枠組み、給料をもらいながら役割をこなしている先生という存在、同じ地域に生まれただけでコミュニティになった友達という存在。それらの全てを芯から信じることがまるでできなかった。

「うちのクラス」
「うちの会社」
「うちの部署」
「うちの家族」

その「うち」という表現を、明子は使ったことがない。どうしても使えずにいた。逆に言うと、使わずに、そういう社会の中の帰属意識を発揮しなかったとしても、かれこれ40年以上生きてこれたし、20年以上社会人として暮らせてきている。家族はもちろんのごとくいないが、セックスフレンドは何人かいた。

38歳と40歳の年下の彼らは、明子の苗字すら知らないと思う。
マッチングアプリで知り合ってそのまま関係性を続けている。月に1、2回の密会を続けるだけで十分だった。

もちろん、それ以上を求められることがある。
この間も、38歳の方にネックレスをもらった。細いネックレスだった。私の体はすでに自分のものにしているはずなのに、心も欲しがっているこの年下の男に対して、明子はしばらく自分の心を決めかねた。嫌いじゃないが、好きでもない。だが、そこまで求められるのはいやな気もしなかった。

しかし結局明子は「心に決めた人がいるから」と嘘をついてその38歳を断った。
人のものになる自分がずっと想像できない。
恋人も、家族も、組織も、国家も。

それでも擬態して生きているわけだが、辛くないわけじゃない。
というか、辛い。
死のうかなと思う日もよくある。

「そろそろ死のうかな」

一人暮らしの部屋の中でたまにそう呟くことがある。
だが明子がそれを実施することはなかった。
おそらくこれからもない。
生きる。
が、退屈の中で生きることを、聡明な明子は自覚していた。

社会から断絶させられた人たちに焦点を当てたテレビ番組などもよくある。ドキュメンタリーとか、ノンフィクションの類である。その中で登場する人たちは、わかりやすく社会から断絶されている。

お金が極端になかったり、親に虐待された経験を持っていたり、教養が圧倒的に欠けていたり、字が書けなかったり、話す日本語も怪しかったりする。

でも、世の中にはそういう、わかりやすい断絶だけじゃないと明子はいつも思う。

会社に、明子よりもいくつか下の古川という男がいる。仕事ができるわけでは全くないのだが、会社が大好きで、いつも幸せそうだ。私もこの男みたいになれればいいのに、と明子はいつも思う。シンプルに、組織や共同体に対する真っ直ぐな忠誠心を持っているだけでこんなにも明るい笑顔ができるのだから、そんな幸せなことはない。この古川のような人間こそが、「内側の人間」であり、断絶などされていない。外にも弾き飛ばされていない。擬態する必要が全くない。

明子は風呂に入り、少しだけ気分が落ち着いていた。
そろそろ死のうかな、という口癖を意識的に止めて「どうにかうまくやっていけたらいいな」と言い換えた。人生はその程度なのかもしれないが、まだ私には何か残っているかもしれない。やるべきことのようなものが。その期待感のようなものが、自分を苦しめていると気付いた。

だがそれを実現するには、エネルギーがいる。
そのエネルギーは、40を超えた明子の体に残っているのだろうか。

風呂上がりで裸の明子は、「ふんっ」と言って意味もなく体に力を入れてみた。
体のどこにも力が入らなくて、明子は「はは、だめだこりゃ」と笑った。

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