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作者紹介

原作:前田真孝(まえだ まさたか)

 後に手品家をチェーン展開させることになる社長トリット(とりっと)こと、前田真孝が高知県高知市にて産声を上げたのは、1980年8月20日のことである。
 前田がマジックに出会ったのは、小学3年生のときだった。当時9歳だった前田少年は、テレビ番組でナポレオンズがマジックのレクチャーをしているのを見て、マジックに驚くとともに、演じることにも興味を持つようになる。ナポレオンズはマジックのタネを明かし、丁寧に演じ方を教えてくれたので、初心者だった前田も、すぐに覚えることができた。そしてその日、自分の父親に演じてみせた前田は、父親がとても喜ぶ姿を見て、嬉しくなった。これが自信となって、友人にも見せるようになり、彼はマジックの世界にはまり込んでいったのである。

 中高と、前田は柔道部に所属していたが、すでに「マジシャン」とあだ名されていた彼は、高知大学に進学したときに、満を持して奇術部を立ち上げることになる。マジックに魅せられていた前田は、自分以外にマジックをする友人がいない現状に、「こんなに面白いのに、なぜ誰もやらないんだろう?」と不思議に思ってもいたし、趣味の合う仲間を作りたいと思っていたのである。19歳のときのことであった。

 こうして、自分の創立した奇術部に部員を勧誘し、少ないながらも仲間とともに楽しくマジックを研究し、演じていた中、2000年1月、前田が20歳のときに、はじめてプロマジシャンと出会うことになる。マジックバーJOKERのベンジャミン上野というマジシャンが、その人であった。前田は、はじめて目の前で見たプロの演技の虜となり、それからJOKERに通うようになり、自らも出演するようになる。時には、ベンジャミン氏の出張マジックに同行し、その中で5分間だけステージマジックを任されたというのが、前田の出張マジックのデビュー戦であった。それから、ベンジャミン氏紹介の発表会でステージマジックを演じることとなり、さらには、コンテスト出場にのめり込むことになる。

 前田がはじめて出場したコンテストは、2001年、プロマジシャンのマーカ・テンドー氏が取りまとめていた第11回SAM東京大会であった。ここで2分間のクロースアップマジック部門に出場したことを皮切りに、前田はありとあらゆるマジックコンテストにエントリーするようになる。コンテスト会場では、同じくプロマジシャンの藤本明義氏とよく顔を合わせることとなったが、藤本氏に次いで日本で2番目にコンテスト経験が多いのは自分だ、と前田は自負している。

 2003年には、マジックの世界大会であるFISMに、マニピュレーション部門で、前田は出場を果たした。前田がFISMの存在を知ったのは2000年のことで、それ以来「出たい!出たい!」と強く思うと同時に発言を繰り返し、それがマーカ・テンドー氏の耳に入り、
「じゃあFISMの挑戦権を得るための大会に出てみる?」
というような話が前田に届いたのだった。もちろん、前田が「行きます!」と即答したのは言うまでもない。そして、希望通りに、FISMの出場権を得たことも。

 このようにして、前田のはじめてのFISM挑戦が決まったが、金銭的な問題もあった。このときのFISMはオランダで開催されることになっており、旅費、交通費などの合計が100万円ほど必要だったのである。大学生である23歳の前田に、これを支払えるだけの貯金はなかったが、それを理由に出場しないという選択を考えることは全くなかった。前田は両親から100万円を借り、パスポートを取り、はじめて海外へ行く手筈を着々と整えていった。このときのことを、後の前田は、
「あの時お金がないからと諦めていたら、今の僕はなかった」
と振り返る。前田は当時より、「できるかどうか」よりも「やるかどうか」を先に決断する性格だったのである。「やる」ことを先に決め、「実現するための手段」を後から考えるという前田の気質は、この時にはすでに醸成されていたのだった。今でも前田は、チャンスがあって、やりたい気持ちがあるのに、お金がない、時間がないという理由で「やらない」という決断をすることは、あまりにももったいないことだ、と考えていて、その精神が今の前田の成功に繋がっていると言うことができるだろう。

 卒業に5年をかけた前田が高知大学を出たのは、2004年のことである。すでにプロマジシャンになることを決めていた前田は、就職活動を一切やらなかったが、卒業すると同時に、
「奇術部を作りたいのですが、顧問をやっていただけませんか?」
と、高知中央高校から声がかかり、その役職を担うことになった。そのときの、前田の教え子の中から、幾人かはプロマジシャンとなり、現在、手品家で働いてもいる。このように、前田は、プロマジシャンとしての人材を育成するとともに、プロマジシャンが働くための場所もまた創出してきたという実績を持っている。
 大学時代に奇術部を設立したことと、ここで奇術部の顧問を受け持ったことで、部員を勧誘することや、全くの初心者にレクチャーをすることを通して、前田は自分の得意とする技能を知ることになった。仲間を作ることと、ゼロから教育することに前田は長けていたのである。その後、自分の長所を最大限に使って、今の成功に結び付けることができたのも、このときの経験のおかげであっただろう。

 2006年には、FISMストックホルム大会に、ジェネラル部門で出場することになる。FISMに出ることを目標として、そのためだけにテクニックを習得し、そのためだけの演目の練習を繰り返してきたが、しかし前田は、いざ目標を達成したときに、満足してコンテスト熱に燃え尽きてしまうことになった。その燃え尽きた感たるや、そこで使った道具をストックホルムに置き去りにしたまま帰国してしまったほどだった。前田のコンテスト人生は、こうして幕を閉じたのである。

 同2006年、前田は、手品家・高松店をオープンさせ、ここから前田の第二幕、マジックバー人生が幕を開けることになった。
手品家の1号店を香川県・高松市に据えるにはいくつか理由があった。師であったベンジャミン氏が高知県でマジックバーを営んでいたので、同じ場所では競合してしまうという考えもあったし、四国の入り口は高知県ではなく香川県であることを考えると、高松市という立地は悪くない場所のようにも思えたからだ。と、このようなことまでは考えた前田だったが、経営に関してはほとんど無知で、やってみたいという気持ちがある以外には、何も考えていなかった。
 知識もお金もない状態から経営を始めてしまった前田は、資金40万円からスタートし、家賃6万円の場所に出店したが、売り上げが年間250万円しか出せず、店長の給料も出せない状態であった。なお、その時の店長は、後に手品家・新宿店を任せられることとなった、なおと氏だった。なおと氏は、ローソンでアルバイトをしながら、月給1万5000円で手品家・高松店の店長を務めていたのである。
 当時、経費の管理もずさんであった前田は、昼は高知中央高校奇術部の顧問をし、夜は高松まで行ってマジックバーで働き、昼500円、夜500円の日給1000円、1月あたり3万円の給料を得ていたが、高知と高松の移動費がそれよりも高かったことを考えようともしなかったのだから、いくら自分の手取りを抑えたところで、赤字経営になるのは当然の成り行きだったことだろう。

 翌2007年、このような赤字経営の現状に悩んだ前田は、売り上げを伸ばすために、九州のプロマジシャン、ジミー菊地氏の協力を得て、マジックショップをオープンさせた。車で九州へ行っては道具を積んで四国へ戻り、その道具を自分の店舗で売ることで生計を立てようとしたのである。
 しかし、これもうまくはいかなかった。月当たり、最高100万円ほどの売り上げを出せたときもあったが、それでも家賃や仕入れや運搬費を賄うには至らず、1年後には撤退を余儀なくされたのだった。

 2008年、不幸な事件があり、師であるベンジャミン氏が他界した。その際、高知市にあったベンジャミン氏のマジックバーJOKERを閉店させるには忍びない、という声が上がり、前田が引き継いで、JOKERは手品家・高知店として生まれ変わることになる。
この一連の流れは、前田にとっては青天の霹靂とも言えた。マジックバーを2店舗持つとは、この時の前田は考えもしなかったが、経営をしていると、思いもよらない状況に遭遇することもある、と前田は知ることにもなった。

 しかしそれを言うならば、同年に、手品家・岡山店をオープンすることになったことも、そして岡山店が大成功したのも、思いもよらない状況だったのかもしれない。
 手品家・岡山店は、もともとは売れ行きの悪いガールズバーであった。そのガールズバーから前田にマジックの依頼が来たことも縁であったことだろうが、そのガールズバーの店舗の形状が、また前田に新しい発想を与えることになった。広くて長いその店舗は、ステージマジックを観るに適切な形状であるように思えたので、前田は早速、その発想を実現させたのである。テーブルマジックが主であったマジックバーにおいて、ステージマジックを取り入れるということは、斬新な展開でもあったこともあり、ガールズバーからマジックバーとなった手品家・岡山店の売り上げは、あっという間に、高松店や高知店の10倍ほどにも伸びた。
 とはいえ、この成功が、ステージマジックのおかげだと、前田ははっきりとは自信を持てずにいた。人口が多い都市だったからかもしれない。新幹線の駅が近かったからかもしれない。あるいは、それ以外の岡山特有の事情があるのか。
 これを確かめるため、前田は、広島にも出店することを計画するようになった。人口と新幹線という条件は岡山よりもむしろ有利で、ここでステージを置いたマジックバーが売れたとなれば、あるひとつの「売れるマジックバーの条件」を見つけることができるかもしれない。前田は好奇心を持って、その出店に手掛けるようになった。

 そして2011年に、めでたく広島市に出店することができたわけだが、そこに辿り着く前、2009年に、前田は個人事業主から法人化を遂げている。この時点で、マジックバーが3店舗に、出張マジックによる収入もあったので、売り上げが1億円を突破する段階であり、前田は税の勉強をせずにここまで来ていたので、そろそろ税務署がやって来る頃ではないかと心配してのことだった。
 そして心配通り、税務署はやって来た。不勉強だった前田は、こうして500万円の追徴課税を受け、納税についての勉強をすることにもなる。
 問題は追徴課税のタイミングであった。法人化の後、貯金は会社名義となり、売り上げも会社に入っていくのに、追徴税は前田個人に課せられ、貯えも収入もないのにどうやって払うのか、というような状況に陥ってしまったのも、勉強不足であった故かもしれない。こうならないように勉強をしておくべきだ、とその後の前田は方々でアドバイスをしている。

 このようなこともあったが、2010年に福山店をオープンさせた後、晴れて2011年に、前田は広島店を出店することになる。
 広島店の出店では、はじめて銀行から資金調達をし、500万円を借りて出店をしたのであるが、出店の読みが当たったのか、初月から客入りが良く、1年目に3500万円という売り上げを達成し、利益としても1000万円を残した。500万円の借入金が、半年で回収できたわけであり、非常にうまくいった事例と言えるだろう。
 この結果をもって、「大都市で出店してステージマジックを導入」という、売れるマジックバーの条件を確認することができたと前田は歓喜し、このコンセプトを持って、さらに事業展開を目指すようになるが、どうやら世の中がそう簡単ではないと前田が知るのに、そう長い時間はかからなかった。

 後に前田は、
「この時の僕は調子に乗っていましたね」
と振り返るが、成功を確信した前田が、三宮店の出店で大きな失敗をしてしまうのは、2013年のことである。
 広島店の出店で、500万円の借り入れを半年で回収できたという実績があったので、次はさらに大きな資金を調達し、より大きな売り上げを目指そうと前田が考えたのは当然であっただろう。この時の前田は、「大都市で出店してステージマジックを導入」という成功条件を信じて疑わなかったのだから、よもや失敗するなどと疑念を抱くはずもなかった。
 こうして、数千万円を投じて建設された三宮店は、月当たり300万円を売り上げる広島店よりも大きな収入源になると期待されたが、そうは問屋が卸さなかった。予想に反して客入りは悪く、月80万円を売り上げるのがやっとであった三宮店は、広島店の年間売り上げを帳消しにする、3000万円という年間赤字を計上してしまったのである。当然、従業員への給与もままならない、という状況になったが、高松店の時のような小さな額の赤字ではなく、事態はより深刻であった。

 ここにきて、自分には経営の勉強が足りないと、前田は気付くことになる。経営の本を読み漁り、勉強を始めるに至ったが、ここでも前田は、公言することを忘れなかった。経営の勉強していることを方々でアピールし、どんな本を読んでいるかをFacebookにも投稿したのだ。すると情報は集まるもので、良い教本や講演会の知らせが舞い込むようになる。そして前田は、経営の師に出会うことになった。230億円の負債から事業を立て直した経営者、木村勝男氏がその人である。

 前田は、木村氏に影響を受けながら、2014年には梅田店を出店する。この出店によって、関西エリアの顧客開拓ができれば、三宮店にも相乗効果が得られるのではないか、と期待したからでもあった。そんな期待を寄せられた梅田店であったので、経営難でありながら、多額の資金が投入され、手品家・梅田店は、日本最大のマジックバーとして生み出された。立地は梅田駅前、徒歩わずかで、1階である。そこに200万円の家賃を支払い、敷地面積100坪のマジックバーが誕生したのだ。これ以上集客に有利な条件はないほどの完璧な立地を、多額の資金と引き換えに、前田は手に入れたのである。
 しかし前田は、ここでもまた赤字を出してしまうことになった。同じ赤字でも原因が違うことがある。たとえば三宮店は客入りが悪くて売り上げが伸びずに赤字になり、一方の梅田店の場合は、客入りは良いが家賃などの経費が高くて賄えなかった、という原因であったのだが、この時の前田は、売り上げが低いことと経費が高いことの違いを分析できてはいなかった。

 さすがに、それはまずいと本気で経営理論を学んだのは2015年のことである。日本創造教育研究所の企業家養成講座を1年かけて受講した前田は、今の手品家の経営の礎をここで培うことになった。理念を掲げてビジョンを定めることができたのも、そのビジョンを追って事業を大きくできたのも、このとき受けた教育のおかげであったと、後の前田は断言する。

 こうして勉強を続けながらも試行錯誤を繰り返した前田は、2016年には手品家・新宿店をオープンさせた。梅田店も最高の立地であったが、世界最大の人口密度を誇る新宿に店舗を出せば、客入りが悪いはずがない。そういう期待がなされたが、現実はまたしても前田を裏切った。それだけの人口密度がありながら、町ゆく人々は手品家・新宿店の顧客にはなってはくれなかったのである。

 これだけの失敗を経験して、前田はやっと分析することができた。
 三宮店の客入りが悪かったのは、近場に大きな駅がたくさんあったから、だと分析される。人々は、西宮で飲んでもいいし、梅田で飲んでもいい。この状況が、広島や岡山とは違ったのである。
 マジックバーの利用は主に2次会で、他の居酒屋で1次会を終えた飲食客が来店する、というのが、そもそものモデルケースである。広島では、広島駅の近くで1次会を終えた飲食客が2次会では手品家に、という流れを、知らぬうちに前田は掴んでいたのだが、同じことは三宮では当てはまらなかった。三宮の飲食客は、三宮だけではなく、西宮でも梅田でも1次会を開き、西宮や梅田で2次会を探すのだ。新規客こそ多かったが、リピーターに関しては梅田店も同様である。したがって、人通りは多くても、リピーターを確保しにくいという立地が、三宮であり梅田であり、そして新宿であったのだが、その事実に気付かないまま出店してしまった前田は、黒字経営をすることができなかったのである。人口が多いほど、またライバル店が多いほど、1度来た顧客が2度目にも来る確率が低下してしまうのは、想像に難くない。

 その後、新宿店での失敗を受け、いくら人口が多くても、マジックというエンターテイメントが手放しでは求められていないのだと前田は気付くことになる。そこを求められる工夫をしないことには、大都市の人口を活かせないし、逆に工夫ができれば、地方都市でも十分に集客ができる可能性はあるということになる。

 こうして失敗を重ねて、そこから学び、先駆者に倣って勉強し、様々な知識を得て、身をもって体感することになったわけだが、前田は、これらの経験を財産だと思っていた。その経験を分析し、今ではノウハウを得ることに繋がっているからである。
 過去の経験から、成功事例を抽出し、それを適用させてチェーン展開している今では、それぞれの失敗体験はとても貴重な情報源となっている。

 手品家は、2017年に仙台店、2018年に郡山店、静岡店、川崎店、博多店、福井店、札幌店をオープンさせ、15店舗を持つ巨大マジックバーと今や成長している。
 そして成長の原動力となったのが、社長前田の失敗を恐れぬチャレンジ精神であったことを理解してもらえたことだろう。あるいは読みが甘かったと言われることもあるかもしれないが、とかくチャレンジなくして辿り着くことのできない高みでもある。

 このような経歴を持つ前田は、後のマジシャンのために、自分の経験から得たノウハウをテキストに残そうと考えはしたが、実現できずにいた。膨大な情報を文字にすることができなかったからである。
 これが実現できる運びとなったのは、マジシャンであり小説家でもある廣木涼と出会ったからだった。


文章:廣木涼(ひろき りょう)

 廣木涼は、福岡県朝倉市で1977年5月28日に誕生した。前田よりは3年ほど早く生まれたが、マジックを始めたのは、逆に3年ほど後のことである。その3年の差がありながらも、きっかけが同じナポレオンズの番組であったことが、2人が意気投合したひとつの理由であったのかもしれない。
 27歳の頃、九州大学大学院理学府で博士(理学)を取得した後、廣木は2005年に旭化成株式会社に入社し、研究開発本部にて次世代ディスプレイ事業の素材開発の研究に携わる。
 趣味でマジックを続けてはいたが、脱サラの後、本格的な職業マジシャンとして活動を始めたのは2015年、廣木が38歳になったその日である。翌2016年には小説家としての第1作「十字架は誰の手に」を出版し、以降2018年までに、2冊の推理小説出版と、8ヶ国でのマジック公演と飲食店80店舗でのマジック出演を果たした廣木は、今なお小説家マジシャンとして活動中の身である。

 そのような経歴を持つ廣木であったので、マジックができて文章も書けたとしても、職業マジシャン歴は浅く、個人事業主としての経営しか経験してはいない。よって「テキストを書くことはできるが、書く内容がない。また売る手段もない」というのが、そのときの廣木であった。そしてこの特性が、手品家社長・前田と完全に噛み合ったのである。前田のほうは「内容があり、売るためのルートもあるが、書くことができない」という状況であったのだ。

 このような出会いで、本テキスト「マジシャン必見!とりっと式経営術」は作成されることとなり、原作:前田真孝、文章:廣木涼にてお届けすることになっている。
 マジシャンとして働き始めたばかりの人、あるいは今から働こうと目指している人から、年収1000万円ほどのプロマジシャンまでを対象とし、その段階のマジシャンが陥りがちな状況やその対策、考えるべきポイント、成長するための秘訣などを、経営という視点から解説するのが本書の役割である。
 マジックの教本も、経営の教本も数あれど、「マジシャンのための経営」の教本は、本テキストがはじめてであろうと思われるし、また本テキストを超える教本は、将来的にもしばらくは現れないであろうことを私、廣木涼は自信を持っている。なぜなら、「優秀なマジシャンが優秀な経営者であり、しかも情報提供に対して積極的で、なおかつ文章化する能力が備わっており、その上で関係者全員がマジック×経営というニッチな仕事に合意する」という条件が整う今回のような事例が、極めて稀であると思うからである。いくら優れたマジシャンや文筆家が揃ったところで、情報共有ができなかったり、利益の小さな仕事に対して不真面目だったりしては、テキストは完成しないのである。
 この教本が、多くのマジシャンに読まれ、その多くのマジシャンが、さらに多くの観客を幸せにする未来が到来するのを、原作者、筆者ともに願っている。

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