母親に思うこと

母親が亡くなって2年近くになる。
大動脈解離?心タンポナーデ?の急性で、胸の血管に穴があいたかなんかだったと思う。

父、母、姉、兄、僕の5人家族で、僕以外みんな横浜に住んでおり、僕は結婚して関西の田舎に住んでいます。

2年前の2018年11月7日の深夜に突然姉から連絡が入り、「落ち着いて聞いてね。さっきお母さんが亡くなった」これが電話の第一声だったと思う。第一発見者は同居している兄でした。

電話を受けた僕は「ついにきてしまったか」というのが最初に思った気持ちだった。
別に母親が以前から病気だったわけでもないし、なんならあまり病気をしてるところを見た記憶がないほど健康だった。
だけど、僕はこんな連絡が入ることの心構えができていたように落ち着いていたし、悔いている。

悔いている理由は、母親が亡くなる一か月前に母親から電話があったからです。
特に用はなかったのですが、家のことを聞いてほしかったのかと思います。
母親が亡くなった年の夏に父親が重度の熱中症で仕事中に倒れました。
それからは仕事ができない体になってしまったので、母親はお金の面で色んな手続きをしなくてはならず苦労していたのだと思います。
そのことはあまり電話で話すことはなかったです。苦労していたのは姉から後日聞いて知りました。

母親は電話の時、兄の心配をしていました。
兄は実家で両親と暮らしていたのですが、精神的な問題で働きに行くことができなくなり、たまに近所のポスティングでお小遣い稼ぎをし、基本的には家にいました。

兄は障害があるわけではなく、話すといたって普通です。自分の食事は自分で用意したり、本を読むことや音楽が好きで、ベースを練習していました。
ですが、対人関係にとてもストレスを感じやすいのか、家族以外と話しているところをあまり見たことがありません。
兄は大学を出ており、学歴は悪くないのですが、大学卒業後に働いた会社で何かあったのだと思います。

母親は、兄の生活に対してとても心配していました。
兄は家にいても親のお金を無駄遣いすることはなく、逆に一切贅沢はしてませんでした。
ですが、親心としては働いて自分の生活基盤を作ってほしいとずっと思っていました。
母親は自分のせいで兄が働きにいけなくなったのではとさえ思ってるので、そんな心配ごとを電話で話してました。

僕は、母親に対して「お母さんのせいではないよ。
兄はいい大人だから、自分のことは自分で決めれるし、決めないといけない。
親のせいにしていることはただの弱さだと思う。だから、責任を感じることはないよ」と。

兄は、昔から両親を、特に父親を毛嫌いしてました。
父親はバブルで恩恵を受けた世代であると共に、バブルに飲み込まれた人でもあります。ですが、バブルで覚えた贅沢病が抜けず、家に十分なお金がなくても毎日お酒を飲み贅沢をしていたので、母親や子供に苦労をかけてました。
その時の嫌な気持ちが兄には特に強く残っており、父親に音楽の道を否定されて大喧嘩をしたこともありました。

母親はいつも飲み歩いて帰ってくる父親に対して、苦労していたからなのか、料理が上手なのに、いつからかスーパーの総菜や弁当が増え、家の家事は最低限になっていました。

そして、僕が生まれて間もない頃に新興宗教にいハマりました。何をしていたのか、お布施をしていたのかは分かりませんが、新刊が出るたびに新しい本や雑誌が家の押し入れに溜まっていったのを覚えてます。
このことで両親は時々喧嘩をしてました。

そんな経験から、兄は父親に対して恨みに近い強い感情を持っていたと思います。
それは少なからず母親にも向けられてました。

もちろん、兄だけではなく、姉や僕自身も父親や母親に対して嫌悪感を持っていたのは事実です。僕にいたっては恐怖すら持ってました。

僕が抱いていた恐怖はトラウマに近いと思います。

僕が中学3年生の時、この時期に一番両親が喧嘩したのを覚えてます。
父親は酒に酔い母親に八つ当たり、それに母親が反抗すれば父親はヒートアップ。
近所に聞こえるほど大きな声で母親に罵声をあびせてました。
もちろん、僕の部屋にも全て聞こえており、早く喧嘩が収まれと祈ることばかりでした。

その頃、姉と兄はアルバイトで夜に家にいることはほとんどなく、僕一人で部屋にいました。
そして最悪の事態がおきました。母親がキレたのです。
それに反応して父親もキレ、母親は力で勝てるわけもなく口を殴られて血だらけになりました。
すぐに父親を止めて、その間に母親は外に出ていきました。

父親の怒りは収まらず、夜の8時くらいだったかと思いますが、「母親を連れて来いと!」僕に怒鳴り散らし、渋々外へ探しにいきました。もちろん行く当ても分からず、当時は携帯を持っていなかったので連絡もつくわけありません。
僕は母親を探すため夜の外を歩きながら涙を流してました。

母親が見つからず家に帰ると、父親が食器をシンクに投げてひたすら割ってました。止めに入ると、「お前は寝てろ!」と怒鳴られ、部屋へ逃げました。
しばらくすると、父親が包丁を持って部屋へきました。

布団に倒され馬乗りにされ、顔に包丁を突き付けられました。
父親の力が強く抑えることに精いっぱいでだったのですが、間一髪で姉と兄が帰ってきました。
帰ってくるなり父親は冷静になったのか、スッとキッチンへ包丁を戻していきました。
その時、僕は恐怖でしばらく動けなかったのを覚えてます。

しばらくすると母親がこっそり帰ってきましたが、僕は特に何か話すことはありませんでした。
次の日、酒が抜けたのか両親とも何事もなかったのようでしたが、夜になり二人とも酒が入ると口論が毎日のように続きました。

少しして両親は離婚しました。
母親は一人で秋田の実家に帰り、僕たちは父親と子ども3人の4人での生活となりました。
姉が時間を見つけては家のことをしてくれていたのですが、短大、バイトと忙しく、十分に家のことができなく、それに父親は苛立ってました。

何日か経つと、母親が子供の様子を見に来たといい家に帰ってきました。
帰ってきたというより、家を覗きに来たようなものです。覗いてはまたどこかえ行き、数日後にまた覗きに来るといった変な行動でした。
「お父さんにバレたら危険だから帰ってこなくてもいいよ」と言っても心配なのかその後何度も覗きにきました。

そのうち、両親のほとぼりが冷めたのか、いつのまにか普通に母親は家にいるようになり、再度籍を入れなおしてました。
とんだお騒がせ夫婦です。

ただ、この事件が起きてから僕の中で何かが切れました。
この時期、僕は何回も自殺したいと思ったし、母親を守れない自分はなんて無力なんだろうと失望するようになりました。

毎日毎日父親の声にビクビクし、母親が殴られ髪の毛を引っ張られる光景や、口が血だらけになり、家の中が血なまぐさくなった匂い。
床に落ちた食器や血を拭き取りながら、自分の無力さに失望。
この光景が今でも頭から離れません。
そして両親に頼ることを辞めました。

姉と兄も両親に対して強い嫌悪感を抱いていたかと思いますが、特に兄は父親に対して恨みに近い感情が芽生えていたのではないかと思います。
実際に、「こんな家にいていまともに子どもが育つわけがない」と言っているのを何度か聞いたことがあります。

こんな家族なので、家族一致団結といった言葉は無縁ですが、僕は両親を一切恨むことはありませんでした。恨むといった強い感情は芽生えず、恐怖が勝っていたからです。

母親がなくなる直前まで、兄は両親に対してきつく当たっていたと聞きます。
母親が電話でそのことを言ってました。ただ、この電話は母親からのSOSだったのかもしれないと、今ではとても悔いてます。
実は姉にも僕と同じタイミングで母親から電話があったそうです。

母親が亡くなり、家の近くで火葬をし、骨は母親の実家でもある秋田の墓へもっていきました。
秋田には母親のお兄さんがいるので、食事などごちそうになり、葬儀の手配などもいろいろと助けてもらいました。

秋田では兄弟3人でホテルに2泊し、寝る前に色々と話しました。
1か月前に母親から電話があったこと、お金の工面で母親は苦労していたこと、兄が母親にイラだちをぶつけていたことなど、兄なりにとても悔いていた様子でした。

兄とは両親についてもっと早く話していればよかったと後悔した話があります。
兄はずっと両親を恨んでおり、今の生活になったのは両親のせいだと思っていたのです。
ですが、僕は全く逆で、両親に恨みは全くなく、感謝をしていると話しました。

兄は僕も同じように両親に対して恨みを持っていると思っていたようで、ビックリしていと同時に、僕はこのことをもっと早く兄に伝えていれば、母親が兄に恨まれることはなかったのかもしれないと後悔してます。

母親は幸せな人生だったのだろうか。
そう考えると、悲しくなります。
母親は死ぬ直前まで、兄に「ごめんなさい」とずっと思っていて、それに兄は気づけず、母親きつく当たっていた。
母親も兄も悔いても悔やみきれないだろうと思う。

今年で母親がなくなって2年が経ちます。母親が亡くなってすぐあとは、よく夢にでてきてくれました。最近は出こないけど、安心してくれたのかな。

いつまでも忘れないので、たまには夢にきてください。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?