私の芸術運動183告白

前回の記事で私の理想郷について軽く触れました。最近芸術の在り方、意味、それが全ての人に当てはまらないものでも私の思う芸術の意味というものを考えてゆくとやはり描いた絵が売れてお金になる事は大筋ではない気がいたします。売れても良い!売れなくても良い!ただその結果に固執しない事、執着を持たない事です。

もっと売れるためにどう家を描こうか?何をモチーフにしようか?どんな宣伝をしようか?

これが進行していきますとなかなか自分の本来の絵というものからは離れていってしまう気がします、だけど売れればいい!!と思えるならそれは正しい事です、先に断っておきますが私は間違いを指摘したいのではなくて、売れなかったから、人から注目されなかったから自分はダメなんだ!!と思う事は一切ないという事を言いたいんです。

売れた絵と売れ残った絵の二極化ではあんまりにつまらない気がしませんか?

自分が気に入っていた絵が売れ残り、あまりうまく表現できなかった絵が売れる、こんな事を言うとプロなら全て最高の仕上がりのものを出せと言われてしまいますがそんな事は正直私に至ってはありません!選んだモチーフの芸術性をうまく引き出せてあげられなかったなぁーと思ってもっと良いものを描くぞ!と心に誓ってばかりです。

これからも私はもっともっと良い絵を描くのですから。

ここで、私が最近よく思い出す旅先での出来事をここに告白しておきます。

詳しくは書きませんけれども私はあの出来事が今の私の芸術に大きく意味をなしているような気がするのです、度々思い出してきた事ですが思い出すたびに少しずつ自分の中で解釈が変わってきて不思議と今は感謝すら感じるような事です。

あれは、もう10年ほど前の事です、私はとある登山口でリュックを背負い早朝に立っていました、意を決して山を登り昼頃に山頂へ到着、とてつもない自然に囲まれて私のような人間にはとても力及ばぬ事を思い知らされるような思いに圧倒されながら謙虚に登り、そして下山してきました。その下山途中に普段の私なら絶対しないであろう行動をしてしまったのです、何であんな事をしたんだろうとその後、後悔の念に苛まれることとなりますがその時の私はなぜか何も考えもしなかったのです。

私のしてしまった事とは道の脇にバスケットボール大の岩があり、私はそれをなぜが足でグイグイと押したのです、今思い返すだけでも本当に心がキュッとなる思いがしますが、私はそのままグイグイと押して転がしてしまったのでした。転がり始めた石は急勾配の山肌をゴロンゴロンと鈍い音を立てながら加速して転がってゆきました。私はその時止まってください!!!!!と心の中で大きく叫びました、このまま山の下まで転がってゆけばどこかで人や何かに当たる事だって大いにあります、私は全身の血の気が引いて目元がジーンと熱くなり呼吸も止まっていたと思います。しかしゴーーーンと大きな音がして、その岩は木に当たって目の届く範囲ですぐに止まってくれたのでした、その瞬間ヒュハァーーッ!!と息ができるようになって私はそのまま動けなくなってしまったのでした。

息を整え、心の中で謝罪を繰り返しながら何かに追われているような思いで足元に気をつけながら下山してゆきました。

あの時岩を止めてくれたあの木にも申し訳なく思い、私はとんでもない事をしてしまったと十年経った今でもこうして思い出すのです。

しかし同時に岩を止めてくれたあの木にとてつもない感謝も感じています。自分の今までの人生で何か一つ掛け違っていたならその岩は止まる事なる最悪な結末を迎えていたかもしれません、本当に大変な事をしてしまったと深く深く反省して今を生きています、だけど私の中ではあの加速して転がり始めたあの岩が今もまだ転がっているような気がしてしまいます、時間にすればほんの3秒位の間の出来事でしたが永遠のように感じるのです。

私は自分の馬鹿さと、自然の怖さ、そして転がり続ける岩と、後悔と、感謝と、反省を、今でも体験させられています。

なぜこれを今ここで告白したかと言うと、後悔よりも、岩を止めてくれたあの木に対しての感謝の思いが大きくなったからです。

もちろん許されたと思い気が楽になったわけじゃありませんが、それよりもあの時本当にありがとうございました。と心から感謝しているのです。

自然に対して私はその時から大きく自分の姿勢が変わったように思います。

感謝しながら謙虚に向き合うようになりました。

この経験は私の芸術にも無意識に反映されているとおもいます。

心がまだズキズキしますが死ぬまで謝罪と感謝を忘れず生きてゆこうと思っています。本当にあの時はありがとうございました。

それと同時に今生きている事にも感謝致します。

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