ウィズコロナのJリーグ
万全を期して試合に挑む。それでも、予期せぬことが起き、勝敗を押し付けられる。フットボールは熱く、そして冷たい。試合後に見える光景はいつも、試合前のそれとは大きく異なる。
COVID-19との戦いを終えた時、そこに広がる光景はいかなるものか。フットボール同様、それが歓喜の瞬間ならば喜ばしい。しかし、その光景は我々の想像を絶するほどに残酷なものかもしれない。そう感じざるを得ないほど、この困難は大きい。
生命のみならず、社会と経済の根底を揺るがす事態に、どう対処し、いかように変化すべきか。コロナが過ぎ去っても、元には戻らない。サッカー界に身を置く我々もまた、再考を余儀なくされている。
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そもそも、Jリーグはエンタメか?
ウィズコロナの社会では、エンタメ界にも大きな変化が起きている。多様化もさることながら、ハードからソフト、オンライン化、その変遷は想像にたやすい。
Jリーグがエンタメであるのならば、そのエンタメ性を変容させる必要がある。テクノロジーやVRを駆使した体験型エンターテイメントとしてのポジションを、再構築しなければならない。
また、Jクラブや選手の発信力も、形を変え、より大きなものにしなければならない。
しかし、Jリーグがエンタメの域を出ず、エンタメ性以外の価値がないのならば、いずれにせよJリーグは衰退産業だ。多様化するエンタメ界の波に、少しずつ、しかし確実に飲み込まれてしまうだろう。
Jリーグがエンタメ性を含み、ゆえに多角的にマネタイズされているのは事実だ。しかしながら、エンタメ性はJリーグのひとつの側面であって、その全容ではない。そう信じているし、そこに希望の光があると思っている。
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エンタメ性以外の側面を考える場合、JリーグからJクラブへと話を移したい。
各クラブには必ずホームタウンがあり、サポーターがいる。各国のリーグを押し上げてきたのは、監督でも選手でもなく、スポンサーやサポーターの熱量であり、Jリーグもその例に漏れない。そして、彼らの存在を、ホームタウンや地域性と切り離して考えることはできない。
ウィズコロナの時代に、試合開催による興行性、サッカーのエンタメ性が損なわれた場合、その街にクラブが存在することの意義は薄れてしまう。よって、今まで以上にホームタウンと接続し、地域に存在意義を提示する必要がある。
地域に根差したクラブ作りは、Jリーグ創設以来の指針でありながら、未だ完遂には程遠い。その余白は、日本サッカー界に残された発展の余地でもある。
勝つことや面白い試合をすることと同様に、地域の経済・消費活動に影響力を持てるか否かが、クラブの将来を左右するようになる。
ピッチ内を疎かにしてもよいという話ではない。ピッチ外を決して疎かにするな。という話だ。
ウィズコロナのフットボールクラブは、在り方を変えなければならない。フットボールという体験を通して、人々に影響を与えるだけでは不十分だ。クラブという存在を通して、地域に影響を与えられなければならない。