第四の壁と体験と寂しさと

自分で言うのもダサダサだなと実感しているが、ミーハーで、ある程度の新しいものに対しては知ろうという意識はある。
それに、他の人がいまを何を感じてるのかとか感じたいのかも知りたい。
だから、タイパ重視でのエンタメ消費に対しても一定の理解があるし、俺もそう言う意味ならながら見でのコンテンツ消費は行っている。
(そうじゃないと、得たいもの全てを得られないからだと思うが)

ただ、そんな中でも自分は、新しい表現や伝えたい手法に対しては、置いていかれているのかもしれないという謎の焦燥感がある。
理解できていないのは、俺がオールドスクーラー過ぎて、それを嚥下できないだけじゃないのか、と。

劇団GAIA_crew第18回本公演『異説東都電波塔 陰陽奇譚』、6月17日14時の回を観た。
もう戯作どころかシナリオすら書かず、演出について実務的な行為を行なっていない人間であるところのタンヒロキとしては、劇感想を書くことに対してやはり精神的なハードルを伴ってしまうが、かの劇団の公演を観た限りには、幾許の文章にせねばならないと思ってしまうわけで。

あらかじめ、演劇・舞台等の用語が多くなり、純粋作品感想よりも演劇に対する感想となることを御容赦願いたい。
(純粋作品感想は別記事掲載予定だ)

本演目で大きな特徴だったのは、「舞台の面(ツラ)に垂らされた紗幕」であろう。
今回、俺が劇場演劇に対してこの面をいかに重要視しており、演出などをやってきたか。
また、観客としても存在しない装置「面」の機能をどう捉えたのか。
それらを深く実感できた。

演出として、紗幕に炎などエフェクトの投影やビルの一室だから窓を照明で表現しよう、という機能で使われていた。
しかし、この紗幕は必要に応じて登場するわけでも、一定タイミングで紗幕が捌けるわけでもなく、開演から終演まで面に存在していたのであった。

上演に際して、観客に何を体験してもらいたいかと思うのかが演出意図であり、それを表現するために舞台装置と演技があると考えている。
その上で、面という第四の壁の意義は決して無視できるものではない。
面という存在しない壁を通して、観客は舞台上の出来事を覗きみるのだ。
そして、鑑賞が進むにつれ、その壁は融解し、客席と舞台上との次元差異が無くなっていく。
演劇のある種儀式的で、形式、プロセスがもたらす体験を観客は得ることができる。
この体験はアナログで、フィジカルでリアルなそれだ。
(こう書くと自分がオールドスクーラー的思考および表現だなと実感してしまうが)

先に述べたように、本演目は面に紗幕がずっと存在していた。
物理的に存在する壁によって、舞台上と客席は完全に隔絶される。
壁の融解など存在し得ず、客席は舞台上の出来事をただ「眺める」ことしかできない。

体験は映像的なそれに近く、俺は「なんか向こうでやってるなぁ」という感情になってしまった。
俺の生来の演劇体験で鑑みても、初めてのデジタルでバーチャルなものであった。
これなら、定点カメラでの観劇と違いは何があるのだろうかと思ってしまうほどに。

終始存在する紗幕のため、観客としては物理的にも比喩的にも開幕しないため、どこか置いていかれている、連れてってくれないという感覚になる。
覗き見るのではなく、眺める。
観たよりも見たという事実が強く残る。
これは純粋に「さみしい」のだ。
(これをなんて言い表せば良いのか、と実に丸一日かけていたが)

中段で「観客に何を体験してもらいたいかと思うのかが演出意図である」という趣旨を書いた。
この紗幕の存在がもたらす効果を演出として、コロナ禍対策やなんだというのを踏まえた上で行い、良しと判断しているのなら、俺はオールドスクーラーであることを深く認め、体験や経験よりも履修事実が重視される世の中の時流に乗り遅れていると実感しよう。

そもそも「体験」はもう時代遅れ、ということなのだから。


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