路地裏の魚屋
大阪の淀川区に加島(かしま)という下町の工場街がある。
佐川急便で配達の仕事をしていた時、僕の担当エリアが加島だったのだ。
初めての出勤日から数日間、サカガミさんというおじさんが運転するトラックの助手席に乗って配達についての研修を受けた。
サカガミさんは佐川急便歴20年のベテランで、長身で細身だが力があって、なんというか若さを残していて、笑顔が爽やかでとても話しが面白く、自動販売機でメロンソーダとかドデカミンとかをよく飲んでいた。
配達中はお互いに色んな話をしたし、こちらの話をたくさん聞いてくれてサカガミさんは僕に興味をもってくれた。1週間ほどの研修がとても楽しかったのだ。
助手席に乗りながら配達作業をしていると加島という街は工場がとても多い街であることに気がついた。
プラスチックの成形をする工場、金属なら何でも加工する工場、ハイテク機器を作っている工場、大きな窓ガラスを加工している工場、本当にさまざまな工場があった。
また近年の国際競争の激化と日本の競争力の低下、工場の海外移転になどにより、ぽつぽつと空き地になっている土地があったが、そういった土地には、老人ホームや就労支援施設などが建設されていってた。
たしかに町工場の大きさというのは、老人ホームの大きさにピッタリなのかもしれない。
工場街での配達を続けていくと従業員しか誰も入ることができないであろう場所に入ることができた。
基本的に荷物はそこに従業員が入り口で受け取ってくれるが、時折、
「ここわな、勝手に入って、あっこのドンツキ機械の下に荷物置いて、ほんで、事務所のだれかにサインもらったらええからな」というようなイレギュラーな配達先もあった。
これなんちゅう機械なんやろ、この部品って何に使うんやろ、ここは外国人が多いんやな、この人すごいオーラの職人やな、日本にこんなとこがあるんか、と感じさせてくれる、刺激的な場所によく配達に行っていた。
下町なので民家もたくさんあって、さらに駅前には新しい高層マンションまで建設されていた。しかし、加島という街は、全体的な印象としては、人情に厚く、フレンドリーな人が多くまるで昭和にタイムスリップしたようだ。
配達の独り立ちをした頃に、肉屋に配達に行ったら、店のおばちゃんが「にいちゃん、新しい子やな。ちょっと時間ある?」と言い、あつあつの揚げたてのコロッケをくれたことがあった。
マンションの配達では「暑いのにありがとうな」とジュースをもらったり、民家の玄関先でお客さんと立ち話が盛り上がってしまい「ご飯食べた?」とカレーをご馳走になりかけたことがある。さすがにお断りしたが。
佐川急便という会社は体育会系である。サカガミさんは、僕が入社して二日目くらいに「しゅご君、彼女おるんか?」と聞いてきた。
「いません」と僕が応えると
「事務所にいっぱい女の子おるやん。コンビニの弁当は寂しいで。『作ってー』って誰かに言うたらええやん。言うたるわ。ほんでその子と付き合ったらええやん」と結構真面目な顔で言った。
なるほど、と思った。
また、同じチームであったコニシさんという見た目は20代に見える40才の男前のお兄さんは、お互いに慣れてきたくらいの時に、
「ええか。冷たい飲みもんわな、チンポにええ。あったかい飲みもんは、チンポにわるい」
とアドバイスをくれた。「普通逆やん。あったかい方がチンチンに良いやろ」と思ったが、
意味がわからなくて笑えた。
そしてその時、チームリーダーのフジモトさんが横にいたのだが、僕に本当のことを教えてくれた。
(その日はとても暑い日だったので、チームの数人で倉庫の陰で話していた。フジモトさんは35才で身長が低いがガタイがすごかった。前腕の筋肉が盛り上げっていた。)
「あのな、ほんまは、スポーツドリンクとか甘いもん飲んだらあかんねん。水かお茶だけにした方がいいよ。」
「えっ?そうなんすか。スポーツドリンクはいいと思ってたんすけど」
「あかんねん。なあ!(他のメンバーがうなずく)。スポドリは、汗かくと、こう肌がべっとりしてくる。気持ちわるなるし、ほんまバテてまうねや。エネルギーわな、食べ物からとったら方がええ。水かお茶だけにしてみて。バテにくなるから」
その話しを聞くまでの僕は、アクエリアスやポカリを中心に、夕方になるとみっくちゅじゅーちゅやCCレモンを飲んだりしていた。
そういえば日中は汗で身体がべたつき時々バテてる感じがしないでもなかった。
その日からチームリーダーが言っていたように、水かお茶だけにしてみると、あら不思議、それからというもの、どれだけ暑くてもバテることがなくなったのだ。
先人の知恵というものは聞くに値する。
僕には探検グセがある。
ある日、その日も一日の仕事量のほとんどを昼の1時に終えた。
あとは夕方の時間指定配達1、2件を残すだけとなった。
(読者の皆さん、夜18時以降の時間指定はやめてあげてくださいね。配達員の帰宅時間が遅くなるから。)
僕は普段、事務所の休憩室で休憩したり、ファミレスで本を読んだりしていたが、ときどき街を散歩していた。それも路地から路地へ。担当エリアの外へ。
加島駅から少し離れた場所に、個人経営のスーパーがあって、以前から僕はそこのスーパーの陳列や雰囲気、それからお惣菜コーナーが好きだった。
よくそのスーパーで弁当や飲み物を買ったりしていたのだが、すこし前にスーパーの裏の出口から見えるほんのり薄暗い景色が気になっていた。どこに通じてるんやろ、何かあるんかな、と気になった。
そしてその日はとても暑い日だった。スーパーで飲み物だけ買って、裏口から外に出てみると、そこには細い通りがあって、ほのくらい場所に小さな商店が3軒ほど並んでいた。
僕はあることに気がついた。このあたり一帯はきっと市場だったに違いない。
そこにドンと新しいスーパーができたのだろう。
地元のおじいさんおばあさんしか来ないような喫茶店とスナックがあって、
その前に、魚屋、漬物屋、豆腐屋が並んでいて、僕は見るからに古い小さな魚屋の前で立ち止まった。
美味しそうな焼き魚や刺身、魚の煮付けが陳列されている。昼時ということもあって、お腹が減ってきた。
魚屋の大将は70才くらいの背の低いおじいちゃんでニコニコとした笑顔と張りのある声が印象的だった。
「おいしゃ。にいちゃん、どうしましょ!」
僕はイワシの煮付けとマグロの刺身を食い入るように見つめ、
「これめっちゃうまそうですね。このイワシの煮付けってここで食べれますか?」と聞いた。
「おお!食べてってください。ちょっと待ってや。椅子出すさかいに。さあさあ、ここ座って」
おっちゃんはパイプ椅子を店の裏から出してきて、そこに座らせてくれた。
作業台を椅子の前に寄せてくれて「これ机にして食べて」と言った。
そして、お箸を出してくれ「さあ、食べ。これも食べるか?サービスや」と魚のフライをサービスしてくれたのだ。
「おっちゃん、このへんってな、昔は市場やったんかな?なんかそんな気してんけど」
「せやっ。ここいらは市場やってな、昔はもうすごい賑わってたよ。スーパーあるやろ。あっこな、最後3店舗くらい吸収しはったんや。おっちゃん、もう60年以上魚屋やっとんねん。ニシシッ」
おっちゃんはニシシと歯を見せて笑う。いい表情をしたおじいさんである。
ひとつひとつの仕草に愛嬌というか可愛さがあり、それはなんというか心の純粋さがそうさせていて、いい生き方してきたんやなと感じた。
しかもおっちゃんはもう80才だと言う。この魚屋のおじいは、14才から魚屋で働き始めていてかれこれ60年以上も大阪の下町で魚屋をしていると言う。
人間というのは不思議なもので闊達に動いているといつまでも若々しくいられるのだろうか。
おっちゃんは歳がいってるのの、魂が輝いている感じで、エネルギッシュだ。
マグロの刺身とイワシの煮付けと白身のフライをそれぞれ口に運んだが、ただただ美味しかった。ご飯がとても欲しくなった。
食事をしていると、腰の曲がったおばちゃんがどこからか急に現れて、店のなかに入ってきた。
「あら、お疲れさんやな。お兄ちゃん佐川の人か?暑くて大変やろ。暑いなぁ。」
腰の曲がったおばちゃんはおっちゃんの奥さんらしい。二人はとても仲良さそうだった。すこし僕と話すとおばちゃんは買い出しの途中なのかどこかへ行ってしまった。
おっちゃんはニカっと笑いながら「にいちゃん。うちの嫁はん、腰曲がっとるやろ。なんでかいうとな。魚食べへんねん。ちっちゃい頃から魚嫌いやねんて。ニシシッ!」
「そうなん!魚食べへんかったら腰曲がるんやな」
「そや!わし毎日食べとるさかいよう見てみ。」とおっちゃんは腰を伸ばした。まるで身長が伸びたことを自慢する少年のようだ。確かに背中がピンとしていた。
その日は「また来るわ〜」と告げて、僕は仕事に戻った。
その日の三日後にまた僕は配達の合間、魚屋に顔を出した。
タイの刺身とアジの塩焼きを買い「ここで食べてええかな」というと、「もちろんや。にいちゃん。」とおっちゃんは言った。
その日はおばちゃんもいて、僕が食事をしている途中で、なんとおばちゃんはアサヒのスーパードライの缶を2本をスーパーで買ってきて「にいちゃん飲み。暑いやろ」とキンキンに冷えたビール2本を僕に手渡した。なんじゃここは。
もしかしたら今日僕がここで買った料理よりもビールの方が高いのではないか。
「おばちゃん。ほんまありがとう。でもな、仕事終わりに飲酒運転の検査あんねん」とビールを2本を返そうとしたら「ああ、そうか。今厳しいんやなぁ。ごめんごめん。ほな、新聞に包んであげる。家で飲んでな」とビールを新聞紙に包んで手渡してくれた。
これやったら会社にバレへんやろ、と。ほんとうに嬉しかった。
おばちゃんはまたすぐどこかに行った。優しい顔したやさしいおばちゃんだったがおっちゃんよりも少し老けて見えた。
おっちゃんと僕の二人きりになるとその日は色んな話をしてくれた。魚屋の腰掛けエプロンをしているから話す姿に風情があった。何より話しがうまかった。真夏の昼の2時だったこともあって夕方まで来店が少ないとのことで魚屋で二人きりでゆっくり話した。
「明石の鯛は、明石の潮流のなかで、身がキュッと引き締まるんや。全然違うど!ホタルイカは、富山湾にさぁ〜っと入ったらぐっと身が肥えよる。まーうまいど!」
おっちゃんは虚空を見つめながら、目の前に海が見えてるように話した。実際に見えているのだ。他にはハモの話など、どこそこの海のこれがうまいんやというのを教えてくれた。豊かな表情を使いながら、身体でも表現しつつ、ニカッとはにかみ、ダイナミックかつ的確に話すので、聞き手の僕に「明石の潮流」も「富山湾」も鮮明に見えた。
「潮流に揉まれる鯛」も「富山湾に入ると肥えていくホタルイカ」も本当に見えた。
まるで満員の客を相手にする演歌歌手のように大胆に歌っているようだ。
しかもそれはまさに「歌」であり「物語り」であった。「物を語る」ということは、こういうことなのか、と僕は思った。
「昔は大阪卸売中央市場でな、どんだけ仕入れても全部売り切っとったわ。ほんまおもろかったど。朝やなくて夜中に市場行ってな。それでも渋滞しとったんや。そん時は、前の車に『お前早よせんかい!』言うてよう喧嘩しとったわ。若かったからな。トラックいっぱいに仕入れて朝早くに店開けて、夜9時すぎまで商売しとったんや。」
「すごいな。ええな。はぁ昔ってさ、みんな魚屋で魚買ってたんやろ。すごいな。ほんでおっちゃん当時は何時間寝てたん?」
「3時間くらいやったな。やったらやった分だけ稼げてたからな。でもなそれ以上におもろかったんや!」
「わし若い時、嫁はんよお泣かしとったんや(申し訳なさそうな顔)。お腹に長男おるときもわし変なこと言うやろ。嫁はんよお泣いとった(・・・)。ほな、子供生まれて見たら、やっぱり泣き虫やったんや。でもな、泣き虫は優しいねん。」
「へーそうなんや。おっちゃん。俺も泣き虫やねん」
「あんた、ええ顔してる」
おっちゃんには息子が二人いるのだが、息子さん二人とも大阪市内の別の場所で魚屋をやってるらしい。すごいなぁと感動した。おっちゃんは人情のかたまりみたいな人。久しぶりにあんないい顔したじいさんに出会った。
ライプニッツと「物語り」
魚屋のおっちゃんはいろんな話しを聞かせてくれたが「物を語る」おっちゃんは、人生という分厚い本のなかの1ページを開き、それを僕に聞かせてくれた。
僕はこの真夏の加島の路地裏の魚屋さんでの出来事を、今でも鮮明に思い出すことができる。
「ある物語」は、いつもは外に出ることはなく魂に折り畳まれている。そして「ある物語」を語ることで、そのページが開き、折り畳まれていたものが開き出し、展開していく。
前半に佐川急便での経験の一部と、後半に路地裏の魚屋での経験での一部を書いた。それらの全体的経験は、僕の中にある。
僕はその当時、時間の流れにそってそれらの世界を経験し、それらを記憶している。
そして「書くという行為」によって、普段は無時間的な場所でひっそりと眠っている「襞(ひだ)」を開き、引き伸ばし、展開していく。
そしてまた紙やキャンバスや白紙の上で、折り込みをし始める。
もしも「話すこと」や「書くこと」や「描くこと」や「思い出すこと」や「見つめること」、つまり、襞(ひだ)を展開することがなかったら、それらの襞は忘却の中に消え去ってしまうかもしれない。
時間とともに物語は薄れていき、消えていくことがある。
襞(ひだ)はいつもうずいたり、囁いたりしている。
そういった小さい声で囁いているものに向き合うこと、それは喜びの一つなのである。
それは何か責任じみていて、この「物語り」が自分から独立していて、「物語り」自体が、表現したがっているような感じもする。
今日、街を見渡すと、自分の物語りを話したいが話せないような人ばかりである。人々の表情はなにか寂しげである。とくに社会に出た若者たち、お年寄り。
もしかしたら「話す場所」が少なくなっているからかもしれない。
昔は市場があり、物を買うことと同時に、話すことを大切にしていた。
お金を稼ぐことよりも、共同体を大切にしていた。
しかし今、いろんな原因によって、「物語り」は忘却の危機に瀕している。
しかし、魂は無数の物語りを、今なお人びとの心の中に宿している。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?