映画『Perfect Days』は「清貧ミニマリストの下町ルーティン」なのか?

(ネタバレ:有り)

 映画『Perfect Days』を観た。予告のまったりした雰囲気が合わず遅ればせてしまった。間に合ったのは幸いだ。素晴らしい映画だった。

 この映画に寄せられた感想もいくつか読んだ。乱暴にいって、本作は清貧ミニマリストの下町ルーティンとして受け止められているようだ。役所広司演じる平山の鋭い感性が、日常をみずみずしく捉える。平山の生きかたを現代のわたしたちは失っている ── 。だが、本当にそれだけの映画なのだろうか? ここでは試みに、もうひとつの見方を示してみたい。平山の再生の物語という見方だ。

Perfect


 完璧。付け足すものがなく、差し引くものもない。ゆえに変化もない。完璧主義という言葉を持ち出すまでもなく、完璧という語には不穏な響きがある。わたしは自分の仕事について「完璧だね」と言われると、なにか含みがあるのでは、と心配になる。平山の生きる日々にも同じ不穏さがある。彼は変化を避け、他者との情緒的な交流は最小限にとどめる。そこに何かがある。

 平山を寡黙で優しい人格者だとみなすこともできる。しかし、この単純な理解は明らかに否定されている。同僚のタカシが辞職する際、「シフトはどうするんだよ」と声を荒げるシーンが描かれる。夜、営業担当者への電話でふたたび怒りが表現される。あれは照れ隠しなどではなく、確かに彼の怒りコミュニケーションだったのだと気付かされる。妹のケイコとも会話は最小限の言葉で交わされ、代わりに抱きしめるという原始的なコミュニケーションが選択される。

 こうして見ると、穏やかで物静かな人物というよりもむしろ、人との関わり合いも、自分の感情を扱うのも不得手な、不器用で未熟な情緒を持った人物なのではないか。物語中盤には、父親との関係もほのめかされる。平山には守りたい日常と、これを侵そうとする外界が見えているのだろう。完璧な日々とは、そんな平山が必死で守っている、小さな世界なのではないか。

再生


 父の関係で傷ついた平山は、日々の人との関わり合いのなかで、少しずつ癒やされていく。馴染の店の何気ない面子が、タカシとそのガールフレンドのアヤが、姪のニコが …… さまざまな人物が平山を翻弄する。平山にとって必ずしも愉快な方法ではないかもしれない。しかし数年、数十年という時間をかけて少しずつ彼と世界との関わり合いを回復していく。

 居酒屋のママは平山にとって特別な存在である。ママとは少ないながらも会話をし、購入した古本も見せる。ママが平山をもてなすとき平山は嬉しそうにしている。他の客が不満をこぼすのを、平山は気に留めない。明らかにここで、ママは平山にとって文字通りの母親として演出されている。スナックで平山は、他のきょうだいとと共に母親を囲んでいる。

 ある日平山は、ママが見知らぬ男性と抱き合うのを目撃する。スナックという閉じた世界でのみ知っていたママが、別な世界で親密な人間関係を持っている。この事実を目の当たりにして平山は逃げ出してしまう。母子関係になぞらえるならば、いつも自分を抱きしめてくれる母親が、実は父親とも親密だったと知るときのショックといえるだろう。元夫である友山は、ママを介した父親として平山に映ることになる。

 その後、友山が余命あと僅かだと知る。抱き合う姿を見たときには想像もつかなかった事情が明かされる。おそらく、平山の実の父親にも事情があったのだろう。平山は不器用ながらも会話を試み、友山と影踏みをして遊ぶ。友山との遊びは父親との和解そのものである。

 ラストシーン。私には、平山が湧き上がるさまざまな感情を扱いかねているように受け取れた。この数日でさまざまなことが起きた。「木々が美しい」「風呂が気持ちいい」「トイレを掃除して清々しい」といった単純な感情とは異なる。これらすべてを忘れて日常に戻っていくこともできただろう。しかし平山は自分の感情を抱えて持ちこたえるほうを選んだ。泣けばいいのか、怒ればいいのか、誰にぶつければいいのか、なにも分からない。しかしこれからまた長い年月をかけて、徐々に扱えるようになってゆくだろう。そうなったとき、彼は平凡なおじさんへと成り下がるのかもしれない。

 平凡になっては残念だというのが現代的な見方だと思う。わたしもそう思う。平山の生きかたは、貨幣やモニタを通して他者と関わり合うわたしたちの生活と真反対なようでいて、よく似ている。

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