マッチングアプリと仮想現実。
5月21日
梅雨の様な雨が続き、憂鬱な日が続いている。
部屋はジメジメしており洗濯物が溜まってゆく
コロナ禍で外出の回数も減り
友人との交流も半分がインターネット上での交流に変わった、それも慣れてきたこの頃の話。
テレビではアラジンの実写版が放映されている。
アラジンのアニメ版は子供の頃VHSがすり減るほど見た記憶がある、多分人生で1番見た映画であろう。
すべてが体に刷り込まれている。
雨も止み、アラジンが流れており
すこし心が落ち着いた。
こんなコロナ禍の梅雨、窓を大きく開けて、新しい風を部屋に取り込みたい
心地のよい春の風が部屋を吹き抜け、あたらしい世界へと自らを連れ出すことが必要なことだろうと感じた。
新しい出会い、それは恋愛においてもそうだろ
ウィズコロナでの新しい出会いとはどの様なものなのだろうか?
近年、当たり前に普及したマッチングアプリについて考えていた。
閉ざされた出会い
恋愛とは何か、
このCMでも「スペック競争になる」
というワードが出ているが
マッチングアプリの持つ同じもの同士が引かれて出会うシステムへの違和感が始まりだ
相手を探すにあたって、自分に都合の良い年齢設定や住んでいる地域、趣味などに縛られ、その都合により条件にあった人物が紹介される。
それはNetflixが自分の趣味嗜好に合わせた、映画を紹介してくるような事と同じで
確かに、このシステムで対象を探せば、なんとなく雰囲気も合って、嫌なところもないが、それ以上に出会うことも困難である。
アラジンではジャスミンが街に出てきて、置いてある商品のリンゴを取ってしまう。そこに盗人のアラジンが現れ、ジャスミンを助ける。
もちろんジャスミンに悪気はないただの価値観の違いだ
そこで問題だ、今のこの社会ではアラジンとジャスミンは出会う事は困難であろう
彼らは身分も違い、生活も大きく違う、なのに偶然に惹かれあい愛を育むわけだ
僕らはもっと貪欲にその出会いを求めなければ行けないのでは無いだろうか
結婚する条件とすれば、お見合い的なマッチングアプリは正当なシステムで優れている面は沢山あるが、それは恋愛とは全く異なるはずだ
恋愛においては、もっと可能性を広べるべきでは無いだろうか
なんとなく、マッチングアプリで出会った自分の好みの人と馴れ合いで過ごす事日々、それは本当に恋愛というのだろうか、それこそ人格形成においてもフィルターバブル的なループに落ちてしまうのではないだろうか
僕らは、損得感情ではない『恋に落ちる』という逃げることのできない現象と向き合うべきで、それは向き合うというよりも、落ちるべきではないのかという話だ
れんあい【恋愛】
特定の相手に対して他の全てを犠牲にしても悔い無いと思い込むような愛情をいだき、常に相手のことを思っては、二人だけでいたい、二人だけの世界を分ち合いたいと願い、それがかなえられたと言っては喜び、ちょっとでも疑念が生じれば不安になるといった状態に身を置くこと。
新明解国語辞典第三版より
恋愛においての可能性を広げる
コロナ禍の今、出会いを見つけることは極めて困難な事だと思う。
そのきっかけとして、マッチングアプリが流行るのも理解できる。
しかし、生活のどこに偶発性や予想不可能性を見出すことができるのか
と言った時に僕は今後のVRやARに可能性を感じている。
つまり、マッチングアプリの極めて軽薄な条件の一致でしかマッチしないシステムに対して気持ち悪さを感じているわけで
インターネット内での出会いに関しては
未だ希望的な視点を持っている。
ここからが僕の妄想であり、理想である。
もし、VR内に街のようなプラットフォームができ皆が容易にアクセス可能になれば、趣味やしょうもない自己紹介トークのみで関係を作る必要はなくなる
例えば、仮想現実の中に家を借りればそこのお隣さんができるわけで、公園に行けば色々な人が踊ったりコミュニケーションを取ったりしてるかもしれない。
数え切れない程のクラブがあったり
街だけではなく、川で魚を釣ったり、森を散策したり、冒険したり、戦ったり、
その生活やアトラクションの中での新たな出会いこそ、偶発的であり、条件ではなく体験の中から生まれる出会いだ
VRの問題点
ここで大きな問題になってくることがある
それは、インターネット内での匿名性だ
仮想現実ではレディプレイヤーワンの様にそれぞれが好きなアバターを使用できる
そこでは肉体に拘束されなく、現実の社会性から解放される。
そこでは、現実世界の容姿や人種、性別さえも分からないわけで
もちろん、それを超えて行くパートナーシップが成立する世界になる未来もあるだろう
しかし、今のマッチングアプリ的な、現実で人と人を結ぶアプリケーションとしての効力は持たない
つまり拡張現実において、現実世界で人と人の架け橋となる様な世界づくりが必要だと思っていて、それを切り開くのはTinderではないかと思っている
Tinderの特異性
Tinderは他のマッチングアプリケーションと全く異なる点がある
それは、条件でのマッチに特化していないことだ
ペアーズやタップルの様なアプリは、好みの条件や好みのコミニティと言った、都合の良いフィルタリングの中で人を結ぶアプリである
しかし、Tinderにその機能はない
Tinderには距離や年齢といったざっくりとした制限はあるが、基本的にランダムで人が表示され、対象が「あり」なのか「なし」なのか
というシンプルな構造の上になりたっている
つまりこれは、このフィーリングや偶然といった予測不可能性であり。計算することのできない世界に飛び込むことであると思う。
つまり、Tinderとペアーズとでは
恋愛思想が異なっている。
体験の中での出会い
海外では前年に既にリリースされていた、「swipe night」というイベントが
2020年に日本に到着した。
それはアプリ内の動画コンテンツで
自分で物語を選択して進んで行く映画である。
地球が滅亡する時に仲間達と、どの様な選択をして進んで行くかを画面のスワイプで自ら選択しながら進む事ができる、様々な選択で映画は変わって行きそれぞれのゴールが待っているのだ
それだけではなく、その様々な用意されたゴールが同じだったもの同士がTinderでマッチする仕組みになっている。
つまり、これも偶発性の中からの出会いであり、体験の中からの出会いだ
ペアーズの様に趣味や好き嫌いの条件ではなく、目の前に起こった事へのリアクションやその選択で自分の運命すらも変わって行くのである。
この様に、Tinderはいつも出会い方の新しい挑戦をしている様に思える。
だから私は、その延長線上にVR世界での出会いというものがあるのではないかと僕は考えている。
ある一定の実名性や写真、などアバター化し
現実の情報を残すのか、ビデオチャットへの展開がシームレスなのか、やり方はまだ未知ではあるが何かしらの未来を切り開いてくれるに違いないと思っている。
VRの中でなら、アラジンとジャスミンの様に同じ林檎の元に出会うことは可能なのだろう。
おわり
コロナが落ち着いたとしても、また次の新種ウイルスがいつ出てくるのかわからないし
日本は災害がいつ訪れるか分からない状況でもある。
首都直下型、南海トラフ、富士山噴火、
目の前に様々な災害が控えていることを忘れてはいけない。
それが、今回のコロナで学んだことでもあるだろう
私自身も、そんな中から新しい学びを始めようとしている
現実世界は不安定だが、インターネット上の生活にはまだまだ可能性が広がっている様に思える
私のチームpinesの活動では、インターネットで失ってしまったモノを考えて行くという
テーマがある
しかし、それと同時に明るいインターネットの未来も考えないといけないと思った。
インターネットにより失ったものと
これからのインターネットとの共存方も考えないといけないと思っている。
そこで僕はこれからの仮想現実の在り方について考えていたわけだ
映像と括っても、映画館、テレビ、YouTube、街頭ビジョン、それぞれのメディアがあり
それぞれの特性がある。
では、VRはどうなるのだろうか
今はアトラクション的な消費のされ方をしているが、もうすぐすればそこに文化が根付いてくる。
そこで、どのように自己表現をしてゆくかを考えないとけいないと感じたわけだ。
そんな希望の多いハードがあることはコンテンツを作る側からしてもとても喜ばしいことであり、コンテンツ側からの何かしらのアプローチも必要なのだと思っている。
そんな中、最近感じた
インディーズゲームの可能性については
次回に続けることにする。
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