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「月と散文」 又吉直樹

帰省した。思い出を形として再想する。
再層された記憶には色があり音がある。

ビルの3階を不意に見てみる。
柱の影にある塵の堆積を見てみる。

離れた所に住む人を思い出して、土産を選ぶ。
花はどうだろうか。

汚れた壁に触る子と嫌悪な顔をする父
父にはまだ遠いのに、父に同情してしまう。


日々感慨に耽ている筈なのに、何も残さず、時間は流れていく。勿体無いのかだからこそ良いのか。

そうしてSNSで自分の思いを書く。共感や反響が身近にある為に自我は共有され、批判を嫌う為に更に一体感は養われていく。凹凸のある人間は弾かれて晒されて、総じて批判される。

「私はこう思う」に根拠はない。
知らない誰かが言ったから正しいに違いない。
いいねが付いたツイートにしか説得力はない。


新幹線でC席に座る。
A席B席に、グラマーな外国人カップルが座ってきた。肩身の狭い思いをする。
彼女は息切れをしており、疲れた顔を見せる。

ふと、彼女の左手薬指に目がいった。彼女の指より、太く大きなリングがこれみよがしに輝いている。

長い旅行を終えてこれから東京に戻る。
ヘッドホンで音楽を聴く彼女の携帯が光り、曲名欄にwhen love takes over と見えた様な見えなかった様な。

せめてもう少しは快適に過ごしてほしいと、私はそっと肩を窄ませた。


人生を変える様な重大な判断も、昨日迄に決まっていた事の様に、決断出来てしまうのは何故だろう。余裕のある時こそ、自分の欲望に愚直になり、言ってから自分の思いに気付く事さえある。


いつも行く服屋さん。
アパレル接客を手腕とした、年下だろう女性スタッフがいた。「〇〇さんに買って貰う為に、この服があるみたいなものですね」とサラッと言われた。近くのカレー屋でも働いてて、、、

「刺激がない」「キッカケがない」そういう人ほど、自分の事が嫌いで、ただ現実逃避を望んでいるだけ。


『花の家』という話が好きだった。
筆者に不釣合いな、立派な花瓶を買う所から始まる。15年間共に過ごしたその“花の家”を居酒屋を営む、信頼できる友人に託した。ある時、店にある筈の花瓶がない。筆者の花瓶への思い入れを知らない友人の何毎ない時間と筆者の15年以上の時間が対比され、物語を味わい深くする。

分岐点に立ち、判断を迫られた時には只管に経験者を探す。正解はなく、結局長いものに巻かれようとする。2年前の自分とは違う。

最後まで読み終わり、「月と散文 未収録原稿が読めますよ」と帯に書いてある。対象期限は数ヶ月前に終わっていた。

私は案外、何も考えていないのかもしれない。

空が明るくなり出したから、1日が始まる予感がする。そんな僕の散文。

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