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HIZUMI ALIVE(1994~1998)

 1994年、鶴見の狭いアパートの中で、当時の中学の担任が自宅を訪れ、高校受験に勧める高校のパンフレットを持ってきた。
 まともに中学に通ってないので内申はボロボロ。担任は単位制(兼通信制)と全寮制の高校のパンフレットを持ってきた。何処でもイイやという自暴自棄な気持ちで、単位制の大学付属の高校一つを受験することにして、自宅で試験勉強を始めた。後々知ったのだがもう一つの全寮制の高校は、ダウンタウン浜田雅功が卒業したスパルタで有名な高校だったらしい。とりあえず渋谷まで単位制の高校を受験して、なんとか合格したので高校は決定。
 1994年は疲弊した中で、小林よしのりの「ゴーマニズム宣言」を偶然手に取り、訳もなく衝撃を受けて、小林よしのりに手紙を書こうとまで思った。実際は書かなかったが現在まで小林よしのりの著書は読み続けている。
 1995年4月から渋谷の単位制の高校に通うようになった。制服ではなく私服というのもグランドも体育館もまともに使えないというのも華やかな高校青春漫画に出てくるような高校生活に憧れていたワタクシにとっては物足りないモノだった。
 さまざまな事情を抱える人が集まる高校でヤンキーもチーマーも居て、ピアスを開けている人も居た。
     入学当初は同級生になった女子から「バンドやらない?」と誘われ、男子からライブハウスでのライブのチケットをもらったりしたが、人間不信に陥っていたので反故した。
 嫌だったのは、暴走族に入っていたタカギという男に目をつけられたことだった。テストを代わりに提出させられたり、行事の移動のバスの中で後部座席から蹴られたり、公園でタバコを投げつけられたり、下北沢に知り合った人達で行ったときに電車に乗っていて急に扉が閉まる直前で降りられたり散々だった。ソイツの影響でタバコもこの頃から吸うようになった。今でもタバコの悪習は止められていない。
 片桐さんというおとなしいカワイイ女の子が自分に好意を持っているという噂も聞いたが繋がることはなかった。カラオケにも行ってみたが、全然楽しくなく、現在までカラオケはほぼ行ったことはない。
 「気持ち悪い」という幻聴めいた声が聞こえることもあり、ウォークマンで音楽を聴きながら登校していた。だがタカギや対人関係で嫌気が差して次第に行かなくなった。
 1995年は「広末涼子」がヤングジャンプに初登場した年だったか。可愛さに魅了されて、しばらく大ファンになった。
 ウィンドウズ95が発売された年でもありインターネットやホームページの創成期だった気がする。広末涼子のホームページヤフーからネットスケープで検索したのを覚えている。
 母と友人と大倉山に父が居ない間に入り込み、ジョンが玄関に銅輪でグルグルに巻き付けられ、かわいそうで犬は飼っちゃイケないのに鶴見のアパートに連れてきた。
 父は兄の大学に押しかけ、鶴見のアパートの住所を聞きだして、手紙を渡してきたりして、気持ち悪くて、同じアパートの違う階に越したりしたが、父は父方の祖母と鶴見のアパートに押しかけたりして、「すまなかった!」と土下座して、迷惑で仕方なかった。
 高校にはまともに行かず、高校の担任がアパートに来たりしたが嫌気が強く拒否した。兄も大学で酷く嫌な目にあっていたようで狂って夜中包丁を取り出して自殺しようとしたのを母が静止した。兄はワタクシに「学校に行けないヤツは社会にも出られない」と罵倒した。たまに高校に行っても、昼食は弁当を代々木公園に持っていき一人で食べて寂しかった。
    阪神淡路大震災、オウム真理教、酒鬼薔薇と恐ろしく不穏なことも続いた。母方の祖母が鶴見のアパートに来ていたが、神戸の大地震の影響で新幹線に乗れず、飛行機で福岡へ帰った。当時の気持ちに大きく影響したのは
「エヴァンゲリオン」の放送開始だった。小室哲哉がミリオンを多発していく初期でもあった。「エンタメ遊園地」で千原兄弟やミッシェルガンエレファントを知ったのもその頃だ。母は状況を打開しようと不動産屋の友人を頼り引っ越しを決めた。
 1996年頃、長津田に越した。カウンターキッチンがあり、鶴見よりは環境が良かった。高校は体育の授業はたまに出て、屋上のコートでフットサルをしたのは気晴らしになった。ある程度上手かったので、「サッカー部入らない?」と誘われ、公園での練習に参加もしたが、人と関わるのは嫌で反故した。
 当時は「エヴァンゲリオン」に大きく嵌り哲学ブームも到来して、「ソフィーの世界」を読んだ。河合隼雄のユング心理学なども読み、心理学にも傾倒した。脳内ブームなどもあって、「脳内革命」も読んだ。、
 初めてのアルバイトを母が働いていた日吉の家具センターで1か月ほどして、初給料でノースフェースのジャケットを購入したが、高校に着ていって、机の上に置いてトイレに行っている間に盗まれた。
 1997年頃高校は通信制に移行して、深夜広末涼子やオールナイトニッポンのラジオを聴き、エヴァンゲリオンの劇場版公開が近づいた頃はTV版の再放送なども観て、朝に「ジパング朝6」の永井美奈子アナや「めざましTV」の八木亜希子アナを観てから朝寝るという昼夜逆転の始末だった。金曜日には「渋谷でチュ」を夜中に観て、土曜日は「逮捕しちゃうぞ」に嵌り「アニメージュ」や「NWTYPE」「声優グランプリ」を購入していた。
週刊誌も購読していた(「BART」「Views」「SPA」など)
 その当時からノートに歪んだ気分を吐き出すように書きなぐるようになった。録画したビデオテープが山のように増え、クローゼットを埋め尽くした。後々宮崎勤が同じような状況だったと知りゾッとした。
 「エヴァンゲリオン」の再放送を深夜観ていたとき、外で大きな物音がして、車にはねられた女性のうめき声が聞こえた。「助けにいかなきゃ」と思いつつも、怖くて動くことが出来なかった。
 本屋でおもむろに購入した「世界の建築家181人」という本が建築に興味を抱いたきっかけだ。アリストテレスの「中庸の徳」も意識した(①哲学者であること②科学者であこと③社会的市民であること)。
 大学受験を意識して、高校の単位は、ほとんど取れていなかったので、当時の大学検定の取得を目指し、高校は中退して、町田にある大学検定専門の予備校に通い始めた。
 そこで高校の単位で補えない大検の科目を東京の通信制高校で取得して、さらに足りない科目は、横浜国大で本試験を受験して合格して大検を取得。
 1998年、母の知人の息子で低偏差値から慶應大学への合格に導いた私塾が日吉にあるというので通うことにした。
         
       ここからまたもやヒズミが生じ始めることになる。

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