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HIZUMI ALIVE(1998~2002)

 1998年、大学検定を取得して、大学進学を目指すことにした。日吉にある私塾に通うようになり、受験勉強を始める。
 その私塾の先生は大手予備校で教えていたが、「落ちこぼれをなくしたい」と予備校の講師を辞めて私塾を開いた京都大学卒の当時50代位の男の先生だった。神経を病んで本が読めない時期があったが、回復して低偏差値の受験生を大学に合格させるということを信条としていた。
 まともに中学高校と勉強をしていない割には入塾直後の模試では偏差値50は越える結果は出た。先生も「今までの生徒は夏休みに一気に伸びているから頑張れば早稲田も合格出来る」と言ってくれた。理系の数学や物理はサッパリだったので国語と英語と世界史を学習することにした。
 しかし伸びると言われた夏休み前に受験勉強に嫌気が差してきて、塾から足が遠ざかるようになってきた。
 当時チェキッ娘がフジテレビで売り出し始めて夢中になって、塾にも行かず平日夕方の17時から30分生放送されるチェキッ娘の30分の生放送を食い入るように観るようになった。友達や恋人を強く欲するようになり受験勉強に集中出来ず、学費だけ払って塾に行かなくなり、先生からは「友達なんてイラナイ。大学に入ってから作ればイイ」と諭されたが、欲求と受験勉強のギャップに精神的に壊れかけてきた。 塾は少人数のアパートの中での学習で、出会いなどなかったし、塾で知り合った人からは「2浪をしたヤツはウンコを風呂でプカプカさせる」とか言われて受験勉強が嫌になった。小林よしのりの「戦争論」がベストセラーになり、世の中の空気感も変わり始めていた。塾には行ける時だけ行って、ひきこもり、TVと雑誌で2次元的欲求を膨らませていく状況だった。夏休みの時期から塾にはほとんど行かなくなった。
 1999年2月の受験の時期には大学を受験することなく終わってしまい2浪が決定した。
 1999年5月に市が尾のマンションに引っ越した。環境を変えることで状況が変わればと思っていたが、相も変わらずチェキッ娘に夢中で塾には行かなかった。ズルズルと1年が経過して、2浪をしたことで塾内の生徒達から陰口を叩かれ、先生から電話がかかってくることも精神を病む要因となった。夢中になっていたチェキッ娘も2年で解散してしまった。
 そのまま2000年のミレニアムを迎えた。まともに受験勉強もしないまま、このままではマズイと3校ほど受験願書を提出した。早稲田大学は願書を提出しただけで、合格できる訳もないと受験会場には行かず、多摩にある法政大学の福祉学科には受験しに行ったが、まともに解答出来なかった。和光大学の人文学部も受けに行ったが、試験開始前にパニックを起こし、会場を飛び出してしまい試験官の方に頼み、個室での受験をした。当然3校とも合格することはなかった。塾も関係が悪化したまま辞めて、人生詰んだ気がしていた。
 12年一緒に居た愛犬のジョンが亡くなっってしまったことも追い打ちをかけた。家族ジョンを夜中に病院に連れていく中で一人家に居て呆然自失としていた。父ともつながりを戻してきていたので、大倉山にジョンの遺体を運び、動かなくなったジョンと大倉山で一緒に寝た。2000年2月11日スペースシャトルエンデバーが打ち上げられた日だった。
 どうしたらイイんだと絶望した中で、なんのきっかけだったか忘れてしまったが、当時建築士の受験資格を通信で取得できるという愛知と京都の大学が開設されたのを広告で見て、元々建築に興味があったし、お金さえ払えば入学出来ると思い、母方の叔母が愛知に居たので、愛知の通信制の建築デザインコースに願書を提出した。
 通信制の大学に入学は受理され、レポートを書きデッサンのスクーリングに原宿の専門学校に行ったが、精神的に病み、あざみ野にあったメンタルクリニックを受診した。8月の暑い夏の日だったか自宅に居て、夜に当時放送されていた「伝説の教師」を観ていたら、思考が遮断され存在が消えていくような乖離感に襲われた。朝起きると症状は酷くなり一人で居るのが酷く怖くなり、母が勤務していた青葉台の勤務先に駆け込んだ。メンタルクリニックで薬をもらい、大学のスクーリングに父の車で送ってもらい受講することは出来たが、帰りにお台場に寄ったときは、酷い乖離感で思考が回らない状況だった。10月の「TBSオールスター感謝祭」の日だったが、飲めないお酒を飲んだ上に精神薬を飲むという自殺行為をしてしまって、呼吸が出来なくなり、夜間の緊急に連れて行ってもらい、急性気管支炎で1週間入院することになった。 あまりに病んでいたのか、入院は逆に精神的にも身体的にも休まることは出来た。退院して、今度は躁の状態になり、小学生時代のアルバムを引っ張りだして、良かった頃の空気がフラッシュバックしてくるような体験をして、学校に通いたくなって、八王子にある建築の専門学校へ通うことを意識して見学に行った。2001年にバスケットも8年ぶりにヤリタイ気持ちになり、青葉スポーツセンターで開かれていたフリーのバスケタイムに参加を始めた。
 そのバスケタイムで、ある女の子に一目惚れすることになる。一瞬見ただけで電気が走るような初めての体験だった。
 ミキくんという今思うと先進的な創造行為をしていた同年代の男性とも知り合った。彼はHPも自分で作成して、自宅で音楽もやっていて、坂本龍一とも関わっていると言っていた。彼がWINNYで入手したIllstrator,PhotoshopDreamWeverをタダでもらい、大学の学習に使用したりして助かった。 参加した当時のバスケタイムは、一目惚れした女の子や外国の方や、ミキくんやが居て、大好きだったバスケもやれて精神が回復していくのを感じた。
 そういう気持ちの高まりの中で、八王子の建築の専門学校への入学も決まり、建築も更に学習していく流れになっていった。


        ヒズミが再生していくような体験だった

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