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メモ書き そのままお進みください論法/論証のレトリック

0 レトリックの意味、定義
「レトリック」という言葉は、使われ方によってその意味なり定義なりがかなり伸縮するので、注意が必要である。

レトリック感覚』『レトリック認識』(いずれも講談社学術文庫)の著者 佐藤信夫は、主として認識のレトリックに新機軸を見いだした。「発見的認識の造形」である(*「認識」という言葉は必ずしも適切とは思えないが、もっと広く心が感受するものを含む)。発見的・創造的な認識を表現するには、さらにいえば発見的・創造的な何かを認識するには、装飾品としてではなく必需品としてレトリックが必要であり、さらに、他者とのコミュニケートへの可能性に開かれる、という視点である。

他方、香西秀信は、論証のレトリックに主に着目している。とりわけ、論証の構造、論証の型である。

なお、広がりをもつレトリックの全体観を図形的に捉えるには、佐藤信夫「消滅したレトリックの意味」『レトリックの消息』7-48[21]頁,白水社,1987、がもっとも分かりやすい。


1 いつもレトリックの敵はレトリックの使い手
パスカルやモンテーニュがレトリックを攻撃していたことは良く知られている。もちらん、彼らこそ私たちがレトリックの実例を学ぶもっとも有用な手本である。


2 レトリックは闇の世界に追いやるべし(?)
香西秀信『論争と「詭弁」 ―レトリックのための弁明』(丸善ライブラリー,1999)のカバーそでに、こうある。「レトリックとは本来、危険で、狡猾で、邪悪な技術である。(中略)この本は、現在あまりにも偽善的な評価によって正当性が認知されつつあるレトリックを、その居心地の悪い「陽のあたる場所」から救い出し、再びそれにふさわしい日陰者の位置に追いやろうというこころみである」。

また、「例えば、現代日本でレトリック流行のきっかけを作った功労者の一人である佐藤信夫氏は、その代表作の序章を次のような言葉で締めくくっている。「本当は、人を言い負かすためだけではなく、言葉を飾るためでもなく、私たちの認識をできるだけありのままに表現するためにこそレトリックの技術が必要だったのに。」 ―― が、この考えは間違っている。レトリックはこんな上品で人畜無害な技術ではない。レトリックの悪名をはらし、それを正当な学問として位置づけようとする親心は、かえってレトリックを弱体化させる」(同書2~3頁)。「レトリックを再び闇の世界に追いやること、それこそがぼくの「レトリックのための弁明」の目的である」(同書14頁)。

香西秀信の著作は好きで、約20年前だが数冊読んだことがある。なぜか本棚にない。最近『論争と「詭弁」 ―レトリックのための弁明』だけ再度購入した。


3 破壊的威力をもつ論法/論証の型
「相手の主張を不条理に帰結させる論法」というのがある(香西秀信『論争と「詭弁」』142頁)。香西によると、レトリックで「類似からの議論」と呼ばれているものの一種で、論理学でいうところの「帰謬法」の一種であるとも考えられるという。

個人的にこの論法が好きで、仕事柄もよく使う。勝手に「そのままお進みください論法」と名付けている。使うというのは、実際にこれで相手を「論破」するという意味ではない(そもそも「論破」などくだらないと思う)。思考様式としてよく使うということと、反対尋問でよく使うという意味。

私見では、シェイクスピア『ヴェニスの商人』でポーシャが法廷で、何度も「証文どおり」とシャイロックに言わせる(実はそれだけではない。なかなか技巧が深い)ところに、この論法は始動している。

反対尋問では、相手の言い分を存分に言わせ、「ピン止めする」(アメリカの法廷弁護士の言葉)。その先には、矛盾する証拠という落とし穴、自己矛盾や不合理、異様な不自然に漂着するという結末を用意する。

劇的であり(自分の主張が、最後は自分の論拠を崩すから)、内部破壊的である(外部からの攻撃ではなく、自分の論理が攻撃してくるから)。


【関連するnote記事】

*大岡越前守の論理が、「そのままお進みください論法」となっている。


*発議案の前文と全条文(第1条~第6条)を読んだが、「笑い」「笑う」の定義規定がない。そのため私は、当該条例の議案提出議員及び賛成議員と賛成議決議員に対して謹んで「冷笑」を送ったが、彼らはこれを受取らざるを得ない。
*なぜ定義規定がないか。作ると大変に滑稽なことになるから置けなかったのだと容易に想像できる。いわく、「本条例において「笑う」とは、自然な心情の発露として内心に生じ、かつ表情に現れる一連の諸現象であって、口の両端をできる限り左右に広げて口角をあげ、前歯が見えるように(ただし、前歯が欠ける人はこの限りではない)……(以下略)」。
*「笑う」といっても、一人で笑うこともあれば複数人で笑い合うこともあるだろうが、「人に笑われる」ということもある。この時、確かにAは笑っているが、Bは笑われているのである。Aは笑いのある生活で健康かもしれないが、Bは傷つく。当該条例はこの種の笑いを排除できない。笑いにまつわる豊かな現実を全く知らなげな様子であり、無邪気である。
*当該条例については、「内心の自由を侵害する」とか「笑いたくても笑えない状況の人もいる」等の外部論理からの批判があり、もちろんそれも必要であろうが、ここはやはり「そのままお進みください論法」を使うべきだと思った。
*私は「冷笑」したので心が少し清々しくなり健康が増進されたような気がするが、前記議員らは何と答えるのであろうか(やはり「君は県民ではない」だろうか)。
*当該条例によって人知れず苦しむ人(「苦しむ」にはいろいろなバリエーションと程度と色合いがあることについて想像を巡らして欲しい。)がいるのではないかと思うと、どうしても発信して自分としても記録に残しておきたかった。



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