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メモ

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個人的メモ書き.
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#決疑論

◆レトリックも決疑論もともにパスカルから攻撃を受けた(佐藤信夫『レトリック認識』127頁.吉満昭宏・大城信哉「決疑論は方法か態度か」名古屋大学情報科学研究科情報創造論講座15巻33頁(2021))。なぜか。有効だからである。現代のレトリックと決疑論の復興は別角度からなされている。

◆森鷗外「カズイスチカ」(森鷗外全集3 ちくま文庫,1995)近代日本の知性もCasuistryの概念で事象をみようとしていたのか。花房が対応した3例ではなく、「全幅の精神を以て病人を見ている」翁の方である。ただ、病の種類等を問わず発揮される翁の洞察力の理由に省察は及んでいない。

◆理論と実践(2)なぜレトリック論(言語哲学ー言語技術)と決疑論(事例比較、類似からの議論)が有力か。焦点は「どうやって新しく現実をみつめ直すか(現実認識の裁ち直し)」であるところ、両論の「技術」が、既存の分節層を揺れ動かす力、新しい分節層を与える力を持っているからだと思われる。

◆理論と実践(1)「理論だけ」「実践だけ」とどちらかに振り切ってしまうのではなく、理論・実践の深みを見据えつつ、その「あいだ」「あわい」「接触面」を探究する。理論と実践を繋ぐものとして今のところ、レトリック論(言語哲学ー言語技術)と決疑論(事例比較、類似からの議論)が最有力候補。

◆「レトリック」も「Casuistry(決疑論)」も、ともに徹底的に批判され、批判された当人が自身の正体を見失い、しかし後に発掘されて“素敵なところをもっているよ”と励まされて、現代において一転して精彩を放つという歴史的経緯の共通性はとても興味深い。具体的な活かし方の蓄積を要す。