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WEBマンガの作り方(第6回)〔キャラクター作りとストーリー作りはどちらを先にするべき?〕

こんにちは。田中裕久です。

一昨日、デジタルハリウッド大学で、今年度1回目の授業を、zoomを使ってやりました。83人の受講生がいたので、果たして、授業の途中で私の回線が切れてしまったら(自宅のWi-Fiは家庭用なので、時々落ちます)どうしようと心配だったのですが、途中でうちのワンコが吠える以外は、無事授業が出来ました。

やってみて感じたのは、チャット機能はめちゃくちゃ便利ですね。何か質問をすると、それぞれの生徒さんがチャットで感想や意見をくれる。
逆に課題だなと思ったのは、画面共有をするのに時間が30秒ぐらいかかるので、どうしてもそこで授業が停滞してしまう。画像が反映されるまで、何か話すのがよいなと思いました。

キャラクターが先か、ストーリーが先か

さて、キャラクターを先に作るか、ストーリーを先に作るか、というのは、マンガ家志望者の永遠のテーマでした。この質問を、私は100回はされたことがあります。

すごくリアルに言うと、おそらく、作者の脳内では、キャラクターとストーリーは同時に発生します。

この場合のストーリーというのは、きっちりしたプロットというよりも、シーンや、エピソードです。シーンやエピソードがキャラクターを動かし、キャラクターが動くと、シーンやエピソードが発生する。という具合です。

ただ、この場合、ストーリーが1Pからラストのページまで順番に浮かぶ、という人はまずいないと思います。

順番はわからないのだけれど、とにかくシーンやエピソードが浮かぶ。これは、とってもよいことです。なので、私はそういう質問には上記の説明をして、キャラクターをメモりながら、頭に浮かんだシーンやエピソードもメモる。そして、それをプロットとしてストーリーに構成する。という話をしていました。

これは、かなり精密な考えだと思っていたのですが、2010年以降、WEBマンガや多くの紙のマンガでは、このやり方は、時代遅れになりつつあります。

例えばですが、みなさんは「北斗の拳」という作品を知っているでしょうか?

主人公のケンシロウは、ストーリーの中で、友達はいるでしょうか? バックストーリーとしては、シンなどはいました。が、基本的に、ケンシロウは1人で敵に立ち向かいます。

これを山で例えたら、富士山です。周りに山がない。とにかく、単体で存在している。

これは、80年代から90年代のマンガでは成立しましたし、それが好きな読者も多くいました。しかし、今のマンガで、このような友達がいない、敵しか現れないマンガはあるでしょうか? ほとんどないと思います。

今、読者が求めているもの、特にWEBマンガにおいて、それは、「友達」なのです。

これは、日本の時代背景や経済状態、私たちが手に持っているスマートフォンなどの最新技術の影響があります。

まず、日本の経済は、昔成長していました。昨日よりも今日、今日よりも明日には、もっと給料が上がり、社会がよくなっていく、ということにリアリティがあった。なので、成長物語に対して、読者は率直に感情移入出来ました

また、日本には子どもが溢れていました。よほどの変わり者でない限り、コミュニケーション能力が低くても、低い同士で自然に友達になる慣習・環境がありました。私は今44歳ですが、人生で「友達が欲しい」「友達を作ろう」と思ったことはあまりないと思います。気づけば、自然に出来るのが友達であり、その友達が2人以上集まれば、それが、「コミュニティ」になったのです。中学生のころ、私たちはよく、河原の奥の奥にある場所に捨ててあるエロ本を拾いに数人で行きました。

しかし、今は、まず、子供の数が少ない。また、みんなセンシティブになっていて、コミュニケーションを取り、仲良くなるまでに、とても多くの気を使う。この傾向は、米津玄師(ハチも含む)の歌詞やボカロの有名曲などによく表れています。

更に困ったことに、私たちは、iPhoneをはじめとしたスマートフォンというお化けアイテムを持っています。大げさに言えば、眠る以外の時間は、誰かとコミュニケーションが図れる、図らざるを得ない社会に生きています。

よほど友達が多い人でない限り、みなさんのTwitterのフォロワー数は自分の理想より低いでしょうし、LINEはあまり鳴らないでしょう。みな、他人の芝が青く見え、自分のコミュニケーション能力を普通か、普通よりもやや低いと認識しています。

そんな中にあって、富士山のように単体で存在する「ケンシロウ」は、日本の若い読者の共感を得にくいのです。

では、今の若い読者は何を求めるか。それは、「コミュニティ」です。ちょうど先週、私がとても尊敬するクリエイターの鯖夢先生が、「コミュニティ」と「チーム」の違いを、私のマンガ教室で説明をしてくれました。

とてもとても目からうろこが落ちたのですが、私なりの理解だと、「チーム」は、コミュニティに属されますが、試合や戦いでの勝利を経験し、価値や強さが限りなく上昇していくもの、いっぽう、「コミュニティ」は、特には成長せず、そこにあるもの。です。

勝利を体験し成長していく、というプログラムは、私たち人間の本能にとても深く刻まれていますから、例えば「週刊少年ジャンプ」に象徴される、バスケットや野球やバレーボールやサッカーなどの分野で、「チーム」が勝利の体験を経験して、強くなっていきます。

しかし、先ほども述べたように、私たちの日本社会は成長もしていないし、そもそも「勝利」とは何なのかという定義すら怪しくなっている。

こうなると、「聲の形」が象徴的なように、特に勝利やコミュニティの価値が上がっていく、という展開よりも、そのコミュニティが崩壊しそうになる(マイナスになる)けれども、なんとか崩壊せずに、ゼロに戻る、というストーリーラインの方が、共感できるし、我々の実感に近いのです。

さて、話がやや遠回りしたのですが、このような2010年以降、特に、現在進行形で今2020年においては、私たちが何となく作る、主人公の勝利のテンプレート、シーンやエピソードは、ジャンプレベルに洗練される、もしくは、「なろう系」のように、努力を伴わないチート能力が歓迎され、「ケンシロウ」は、ほとんど歓迎されないのです。

もう少し、話を展開します。キャラクターとストーリー、どちらを先に作るべきかと言えば、今は「キャラクター」それも、単体のキャラクター(富士山)ではなく、複数のキャラクター(北アルプスみたいなイメージ。もしくは、とっても小さな山々)を同時に作り、その彼らがどこにいて、どういう経緯があって一緒にいるのか。彼らの楽しい個性や会話、が最初に作られるべきであり、それがありきのマンガ作品が求められています。

例えば、電車に乗るサラリーマンや学生は、大げさに言うと、ほとんどの人が、心のどこかに寂しさを持っている。友だちが多くて、楽しくて楽しくて仕方がない、という人は、今の日本社会においては、少数派になります。

すると、そのちょっと寂しい人たちが、例えスマートフォンであっても、電車に乗っている10分間は、まるで自分もそこに参加しているように錯覚する、よくデザインされたコミュニティを作るのが最も大事なことなのです。
この、コミュニティの話やキャラクターの個性については、次回以降お話していきますね。

ベローチェのアイスコーヒーを飲み終えたので、昼ご飯を食べに行くか、ビッグカメラに行ってスマホを買い替えるか、美容院に行くか、犬の散歩に行くか。14時14分で、今日はこのコラム以外、特に仕事がない私はハッピーです。

きれいごとは言いませんが、みなさんも、コロナ下ですが、小さな幸せを見つけていきましょう。


ベローチェの前のラーメン屋には、太るから絶対入らないようにしようと決意している
田中裕久

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