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WEBマンガの作り方(第5回)〔名シーンを作る/WEBマンガの限界〕

こんにちは。田中裕久です。

みなさんはコロナを抱えつつ、お仕事や勉学に励まれていますか? 私は船橋にこもりっきりな生活にも慣れました。ただ、やっぱり誰かと会って会話したいですね。コロナの心配なく、居酒屋などで飲みたいです。

本編とも絡むので、少し詳しくお話をさせていただきたいのですが、今回のコロナが収まったあと、社会にどのような変化が生まれるか、予想するのですまず、学校は別にして、塾や習い事は、ほとんどオンライン化するのではないかと思います。

私のマンガ教室も、3月の3週目で一時閉じましたが、今日からはオンラインで授業をやろうかと思っています。マンガ家さんとの打ち合わせも、これからはZoomでやろうと思います。

Zoomでの打ち合わせは、喫茶店などでやるよりも、お互いに集中できるので、とてもよいです。そして、このコラムに一番関係することでは、きっと、マンガの紙とWEBの比率が劇的に変化すると思います。

もちろん、紙が減り、WEBマンガが増えます。人によっては、それは嘆かわしいことでしょう。実際に、ベテランの編集者の方などは、「WEBマンガの限界」を知っているので、「自分たちが築いてきたこのマンガという文化はどうなるのだろう?」とネガティブに捉えています。

WEBマンガにおける表現の限界

少し、このWEBマンガの限界を説明すると、WEBマンガは、ほとんどの場合がパソコンではなく、スマートフォンなど、液晶タブレットで見られるために、紙やパソコンに比べて、圧倒的に画角(画面)が小さいです。

思い出しましょう。『タラれば娘』や『ラブラブエイリアン』や『ちーちゃんはちょっと足りない』など、会話の面白さ、キャラクター同士の軽妙なやり取りは、かなりかなり沢山のセリフがあります。

紙のサイズだと、私たちはそれを楽しく読むことができるのですが、スマートフォンのサイズで、果たして文字が読めますかね?

それぞれのコマを拡大して読めば、読めます。しかし、電車の中で10分、といった読者が、わざわざ画面を拡大してくれ、そこの会話をちゃんと読んでくれますかね? おそらく、読まないと思います。これは、WEBマンガを語るうえで、とてもとても大きな特徴です。

さて、このコラムでは、「直感的な感情移入」と「論理的な感情移入」を考えてきました。WEBマンガにおいては、上記の理由から、圧倒的に「直感的な感情移入」を見せるのに向いているのです。逆に、ストーリーに伏線を張ったり、セリフで読ませて読者に感情移入をしていただく、「論理的な感情移入」にはあまり向いていません

ただし、例外はあります。それは韓国マンガでヒットしている『外見至上主義』や『女神降臨』です。

これらのマンガは、縦スクロールで、流し読みするのに最適化していて、セリフの多くは、絵にかぶらず、「直感的に文字が読める」のです。

なので、流し読みでも、だいたい「直感的な感情移入」と「論理的な感情移入」がよいバランスで見ることができる。今のWEBマンガ界では、1つの正解だと思います。実際にLINEマンガでとても売れていますし、私もものすごいスピードで読み、課金し、読み、課金し、読み、課金し、を繰り返しています。それは、紙マンガに比べると、圧倒的に読みやすく、上記の2つの感情移入がよいブレンドで配合されているので、熱中できるのです。

一方、日本のWEBマンガのほとんどは、とにかくセリフを少なく、読みやすいように、しかしただ読みやすければよいのではなく、読者に「面白い」という刺激を与えなければならないのでエロやグロやホラーの要素を入れます。

当り前ですが、それがまずまずのビュー数を獲得すれば、他のマンガ家もそれに追随していく。これは、WEBマンガが抱える悪循環です。私は、この問題が根本的に解消されない限りは、WEBマンガでは、後世に語り継がれるような作品は出て来ないのではないかなと思います。

「直感的な感情移入」と「客観的な感情移入」が重なるときに、名シーンが生まれる

ついでに、と言っては失礼ですが、みなさんは、マンガの「名シーン」とはどのように生まれるかご存知ですか? 私が思うところでは、先の「直感的な感情移入」と「客観的な感情移入」がバシッとはまる場面です。多くは、そのキャラクターの象徴的なセリフが入ります。

宝島社の『マンガ名ゼリフ大全』というムック本があるのですが、そこにある珠玉の名セリフの数々は、こうした2つの感情移入がバシッと1つになるところから生まれています。

1つ、わりと有名なエピソードをお話しましょう。みなさんは『あしたのジョー』を読んだことがありますか? 今は、文庫本しか手に入らないでしょうし、若い人はちょっと手を出しづらいかもしれませんが、この作品を読んでいないみなさんでも、この作品のラストはなんとなく知っていませんか?

ジョーは、ホセというとんでもなく強い世界チャンピオンと戦い、判定後、リングのセコンドの椅子に座ったまま、「真っ白」になります。ジョーが生きているのか、死んでいるのか、わかりません。ただ、満足そうな微笑と共に真っ白になります。

まず、このシーンは、絵的になかなかの衝撃です。

ちょっと裏話をすると、この『あしたのジョー』はちばてつやさんの代表作として、ちばさんが全てを作ったように思われがちですが、原作は梶原一騎さんです。当時のトッププロ原作者です。

ちばてつやさんは最初作画だったのですが、ドヤ街の取材をするなど、並々ならぬ情熱でこの作品を描きました。原作の梶原さんも、その圧倒的な作品クオリティに、「これはちばくんの作品だね」と感嘆したそうです。

さて、最後のシリーズで、ジョーはチャンピオンのホセに挑み、梶原さんの原作では、ジョーは逆転パンチで勝つ、という展開だったそうです。

しかし、ちばてつやさんはそれはおかしいと思いました。今、ジョーに残っている力で、ホセに勝てるわけがない。ちばさんはジョーが負けるというシナリオにしました。

しかし、これまで、ジョーに感情移入して読んできた読者は、ただ、ジョーが敗れ去る姿が最終回で、満足するでしょうか?

私も原作を少々は書きますが、エンターテイメント作家としては、やはり、多少苦しくても梶原さんの案が正解です。

読者は、せっかく感情移入してきたキャラクターがただ負けて終わるところは見たくない。

さて、困ったのはちばさんたちです。どうしたらよいか。ラストは、ジョーが負けるとしても、何かしらのカタルシスや達成感を読者に与えなければならない。

ここで、新人の(すいません!このエピソード、大好きなので書いていますが、出典がどこだったかを忘れてしまい、多少事実と異なるかもしれません。ただ、これが「私の」あしたのジョーの名シーンです)編集者が、第1話から最終回前までの作品を改めて読み直します。

これが、とてもとてもファインプレーでした。

この長編の半ば過ぎ辺り、ジョーは幼馴染ののりちゃんというキャラクターに、埠頭でこう言われます。

「矢吹くんは・・・さみしくないの? 同じ年ごろ青年が 海に山に恋人と連れ立って青春を謳歌しているというのに 矢吹くんときたらくる日もくる日も汗とワセリンと松ヤニのにおいがただよううすぐらいジムにとじこもって なわとびをしたり柔軟体操をしたりシャドー・ボクシングをしたりサンドバッグを叩いたり(以下略)」

それに対して、ジョーはこう答えます。

「そこいらのれんじゅうみたいにブズブスとくすぶりながら不完全燃焼しているんじゃない ほんのしゅんかんにせよまぶしいほどまっかに燃えあがるんだ そして あとはまっ白な灰だけが残る・・・ 燃えかすなんかのこりゃしない・・・ まっ白な灰だけだ」
「そんな充実感は拳闘をやるまえにはなかったよ わかるかい紀ちゃん 負い目や義理だけで拳闘をやってるわけじゃない 拳闘がすきなんだ 死にものぐるいでかみあいっこをする充実感が わりと おれ すきなんだ」

引用しているだけで泣きそうになるこのシーン、編集者はこれを発見しました。大急ぎでちば先生のところに行き、「これじゃないですか?ラストは?」と言った。ちば先生も、「これだ!」と思った(再説しますが、これはあくまで私の頭の中の「あしたのジョー」のラストシーンの感情移入のストーリーです。事実は少し違っているかもしれません)。

そう。この作品に「客観的感情移入」している作者・編集者・読者にとって、最後にジョーがすること、言わせることは、真っ白な灰になることだったのです。

おそらく、マンガという文化が続く限り、この「あしたのジョー」は、不朽の名作として語り継がれるでしょう。そして、この有名なラストシーンも、読者の頭の中に残り続けるでしょう。これが、私が言う、名作の名シーンなのです。

繰り返しますが、まず、シーンとしてよく出来ている。見た瞬間、何か引き付けられる絵になっている(直感的な感情移入)。そして、これまで物語に滞在してきた人たち、ずっとジョーを応援したり、ジョーの気持ちになってページをめくってきた読者たちが最も納得し、感動するシーン(論理的な感情移入)が出来ているのです。

さてさて、果たして、これがWEBマンガでできるのか、です。
私は、本当にすごい天才が現れない限り、今の環境だと、まだ無理なんじゃないかな?と思います。いかがでしょうか?

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