余裕がないとお坊さんですら人に当たる

こんにちは。ヒロです。東京で営業として働き、私生活ではラッパーとして音楽活動をしています。

このブログを読んでくれる方は、僕のように20代で営業をしている方や音楽活動をしている方など参考にしてもらえたらと思います。

僕のブログを読んでくれている方はお分かりだと思いますが、僕の左足はウオノメから細菌に感染して、歩けないほどの痛みを抱えています。移動するときは左足はあまり地につけず、まるで足を引きずるように歩いてます。僕は普段持病もなく、体は健康なので、日常生活に支障をきたすほどの病気や怪我はさほどしたことがありません。ただ今回始めてと言ってもいいほど、日常生活を妨げるほどの負傷をしました。

このような生活を続けていると、
中国の思想家 老子が伝えた言葉
「足るを知る者は富む。」を思い出します。
この言葉の意味は”満足することを知っている者は、たとえ貧しくとも精神的には豊かで、幸福であるということ”です。
これは今あることに満足できる人は、たとえ貧しくなっても幸せでいられるということです。僕は今の足の怪我でこれを学びました。

今の僕の歩くスピードは普段の半分以下で、左足は激痛なので右足と手しか使えません。朝の通勤なんかは人にぶつかられたり、押されようものなら大惨事なのでかなり慎重に歩いています。

このような生活を続けていると、自分が健康で生きられてきたことがいかに幸運かと感じることができます。当たり前のようで当たり前のことではない。世の中には足以外にも体が不自由な方はたくさんいて皆それでも生活をしていると思います。例えば、足が不自由な方は、そうでない人との違いとしては、同じようにスポーツを楽しむことができなかったり、歩くのに時間や体力をより使います。

そういったことを自分が病気や怪我をした時にすごく感じるのです。だからこそ、自分の身体をもっと大事にして、日々を大事に生きなければ行けないなと思いました。逆に今まで気にしていなかったような小さな出来事に全て感謝し、生きていることの嬉しさみたいなものを感じれるようになりました。

僕は今までメンタルが不安定になりがちで仕事もそれが原因で折れてしまったりしていました。でも、今周りの人のおかげで楽しく生きられている。だからこそ、生きている小さな出来事一つ一つに喜びがあって、あぁ生きててよかったと思えるのです。

そして、この足るを知るという言葉にはもう一つ良い面があります。それは、今の辛い時に同じように怪我や病気がある人、足の悪い高齢者などの気持ちがわかるのです。だからこそ、普段からどんな人にも親切にしようと思います。例えば、自分が急いでいて余裕がない時に、目の前を足の悪い高齢者の方が歩いていても「早く行って。急いでるんだ。」と心の中で焦ったりイライラするのではなく、その人も今怪我している僕と同じように大変な思いをしているんだと理解するのです。

人間、余裕がない時には自分のことしか考えられなくなります。それはお金持ちであっても、寺のお坊さんであっても変わりません笑。
そう、日々修行し、悟りを開いているお坊さんでも人の気持ちを考える余裕がなく、自分のことしか考えられなくなるのです笑。

大学生だったある時に驚きの経験をしました。
僕は大学生の時に家庭教師会社の営業のアルバイトをやっていました。はじめに断りますが、何十万の教科書を売りつける悪徳な業者ではありません。あくまで家庭教師を始めたいというご家庭に出向き、体験授業と提案をして入会して頂くというものです。この営業はテレアポ部隊が別にいて、アポを取ってくれて、そして僕達営業スタッフ(名乗る際は営業とは言わず、あくまで先生)として行きます。そこで体験授業と親御さんからのヒアリングを経て、契約という流れになります。

ある時、お寺の家族の家に行ったのです。中学生の息子さんの高校受験に向けて勉強したいとのことでした。確か埼玉のお寺でお寺と他には2世帯別の戸建てが入ってる大きな土地でした。

中に入ると、お坊さんのお父さんとその奥様に迎え入れられました。由緒正しきお坊さんということもあって、初めは腰が低く、とても丁寧に迎え入れてくれました。いざ、息子さんを呼んで話を聞く段になった瞬間、さっきまで優しかった夫婦が厳しい親に変わり、息子を叱りつけます。
「先生が来てくれてるんだ。その態度を直せ。」など
また話を聞くと親は寺を継いでほしいから、仏教系の高校に行って欲しいけど、息子はそこまで乗り気ではないということで、親子で確執があるような感じでした。とりあえず、親御さんには出て頂いて、息子さんと話をして体験授業を行ったのですが、彼の心を開くことも出来なければ、契約を取ることも出来ませんでした。

そして、後日検討後の確認の電話を上司が入れた時に、
「息子から聞いたがが井田さんに〜なことを言われた。」とクレームのような物が入りました。僕は息子さんとは好きなものの話や本当はどうしたいのかなど聞いただけで、こうしたら?とか親御さんのことを批判したりとか余計な事は言っていません。親御さんと話すときも基本はヒアリングしていただけで、なにか提言するようなこともありませんでした。そして、その時も親御さんはずっと腰が低く、ニコニコしながら聞いてました。もちろんその時から目は笑ってないと思っていましたが笑。

クレームになるのは良いのです。あくまで信用を得れなかった僕が悪いのです。
ただし、驚いたのは言ってもいないことを言ったと言われたことです。もちろん近しいことを言ったのならまだしも、捏造に近いほどのクレームでした。それは息子さんが親から叱られるのを避けるために僕をオトリにしたのか、親御さんが勝手に被害妄想で言っているのか定かではありませんが、まあどちらにしても、まだそれも良いです。
一番はそれが寺のお坊さんによる行動だったことです。

僕のイメージするお坊さんは人の気持を理解し、物事を広く捉えることで人の悩みを聞き、気持ちを楽にしてくれる存在だと思っていました。それが息子の意見を聞かず、挙げ句、言ってもいないクレームを入れるのです。

もちろんこれはその人の元々の性格もあるのかもしれません。でも、世の中生まれながらの悪人はいません。そんなフリーザやセルみたいな人間は居ないのです笑。
彼らも家のことや仕事で余裕がなくて、人に当たってしまったんだなと思いました。

だからこそ、常に視野を広く持ち、客観的に考え、人の気持ちを考える。また、辛い時も美味しいご飯、温かいお風呂など小さな出来事に喜びを持ち、生きてて良かったと思う。そうすれば、辛い時でも少し前向きに生きれると思っています。

だからこそ、大学生で坊さんにクレームを入れられたけど、生きてて良かったと思えてます笑。

ちなみに変なセミナーに入ったわけでも、僕自身が宗教に入信したわけでもありません笑。あくまで生きていて、感じたことを書いてるだけです。

逆に僕が宗教を開いて、あのお坊さんを救ってあげるのも良いかもしれません笑

今日も日々に感謝して、一日を生きていきます。


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