見出し画像

【人生100年観 #001】暴虐性の果ては自壊①

こんにちは、ひろげとんです。

今日はボクの幼少期について語ります。
ところどころ非常に残虐性やグロテスクな表現が含まれますので、心臓が弱い方や敏感な方は閲覧を控えていただきますよう、お願いします。
長くなりそうなので2部構成になると思います。
では、本題に入ります。

ボクは実父、母、妹と4人家族で暮らしていました。
しかしすぐに離婚し、母に親権があったにも関わらず無理やり実父に妹と一緒に引き取られました。いや引き剥がされた、という表現の方が正しいかもしれません。
当時ボクが3歳、妹が1歳のときです。

それから結局、小学4年生(8歳)まで実父のもとで全く違う環境で暮らすことになります。
今回はその期間に起きた様々な出来事について語っていこうと思います。
テーマは「暴力」についてなのですが、そのことを語るには祖父の時代まで遡る必要がありますので、以下で語ります。
これは全てボクが大人になってから母から改めて聞いた内容です。

実父の父、ボクの父方の祖父(夫)は「三遊亭小園遊」という落語家です。あの有名な亭号「三遊亭」の3代目です。三遊亭を世に広めた方としても有名です。
これだけ聞いたらとんでもない肩書きかもしれないですがその実、恐ろしいくらいの支配的な環境だったとのことです。
ちなみに家族構成は実父方の祖父(夫)と実父方の祖母(妻)、実父(兄)、実父方の叔母(妹)の4人でした。
この世界において、特に日本は肩書きを重要視します。上記のような肩書きがあれば実際いくら悪くても犯罪さえ起こさなければカモフラージュできてしまうのが世間の常です。
実父の幼少期の家庭環境もまさにそのような状態でした。
まず祖父(夫)は毎日宴会があり、そこで酒を浴びるように飲み、そしてコンパニオンに囲まれ、それを経て帰宅するという日々だった。
でも仕事場では暴れないから世間的にはとても評価されている、という感じです。
となるとどうなるかイメージしてみてください。まさに皆さんのイメージ通り家に帰ったら祖母(妻)に暴力を振るう(DV)、そして女癖も悪いことから浮気も多発するという暴君でした。暴君なのにそれを誰かに伝えることができない、SOSが出せない、という非常に苦しい環境だったのです。暴力なんて傷跡が残るレベルの暴力です。
何故世間にSOSを発信できなかったのかはボクも詳細は分からず、ひとことでは語れないですが、1つ言えることは昭和という時代背景とネットワークの構築が不十分だったというところにあると思います。
あるとき、祖母(妻)はそうした日々に耐えに耐えかねてまさかの実父(兄)と叔母(妹)を置いて行って家出してしまいます。
そして次の日。
.
..

….
…..
……
朝のニュースにて。
「速報です!今日の午前〇〇時過ぎ、〇〇線の踏切内で事故がありました。踏切内に車が置き去りにされており、跡形も無いほどに大破しています。中には40代くらいの女性が1人、シートに縄で縛られた状態で全身を強く打った状態で病院に搬送されましたが、死亡が確認されました。」

この衝撃的すぎるニュースをボクは母から聞きました。ニュースにおいての「全身を強く打って」という表現はまさに「原形を留めていない」という意味です。ただ母も多分実父から聞いている内容なので、母がリアルタイムで聴いていた話ではもちろんありません。
いずれにせよ、とんでもない事件です。結局この事件は「縄で縛られていた」という物的証拠があるにも関わらず人身事故として片付けられてしまいました。
それからというものの、暴虐の限りを尽くしている祖父(夫)と実父(兄)、叔母(妹)の3人家族となるのですが、この頃から祖父(夫)はほどんど家に帰らなくなります。おそらく新しい女でも探していたのでしょう。
そう、この頃から今度はネグレクトが始まります。いわゆる放置虐待です。
当時実父(兄)は5歳、叔母(2歳)の時のできごとです。
この頃から実父は料理を自分で作らざるを得なくなり、最初はお味噌汁から、お米を炊いたり、7歳になるころには和食は一通りマスターしていたみたいです。

本日はここまで。
次回にこうご期待!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?