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嘘には段階があり『AはBである』と、全く事実に反する事をいうのもあれば、相手が知らない大事な事をわざと黙っているのも広い意味では嘘をついている事になります。

人が相手の為にならない嘘をつく時は大抵の場合、それによって戦に勝ちたいとか取引で『不当な利益を得たい』とか個人や組織の悪事を隠したいという様な目的があります。その際には自動的に過剰な欲望のエネルギーが心に発生します。それだけでも私達の心は緊張して落ち着かない状態になります。バレはしないかと戦々恐々とした気分になってしまいます。

加えて、本当は出来ないと分かっている事を、その場だけ相手の承諾を得たくて『できます』と言ってしまう時、私達の心の中には二つの相反する情報が浮かび上がります。『本当は出来ない』という情報と『出来る』という事です。心はこういった相反する情報を並べられてしまうと、自分のなかにある情報をうまく整理できなくなります。

『AでありなおかつAでない』と言ったような情報を『Aでないというのは嘘だから』と思う小器用な機能が心には備わっていないからです。従って嘘をつけばつくほど矛盾した情報が潜在意識に増えていきますから、少しずつ脳が混乱していき、明晰な判断力が損なわれていきます。

元々高い能力を持つような官僚の人が誰の目からも明らかに嘘をついていると見破られるような内容を、公の場所で歪んだ表情で発言しているのは仕事とは言え気の毒な気がします。またそれが出来ないと子供扱いされるような社会の仕組みには失望します。

元々勝ち組遺伝子が組み込まれている私達の潜在意識をそういう状態にしてしまう事は負けを呼び寄せる事になってしまいます。そういう事例はいくつか見てきましたが、自分はそうならないように気を付けたいと思います。

我まだ木鶏たり得ず 

若冲の鶏

昔中国のある男が王様の為に闘鶏を育てていました。闘鶏を訓練し始めてから10日経つとせっかちな王は聞きました『もう大丈夫か?』ところが彼は頭を振って『まだ鶏は虚勢を張っていてダメです』と言いました。また10日経って王が尋ねると『まだ相手の動きに心を動かすところがあるからダメです』と答えました。更に10日経って聞くと『もう大丈夫です』と言って闘鶏を渡しました。

見ると闘鶏は凛として辺りを圧する様であり、まるで木で作った闘鶏のように動じるものがありませんでした。そして事実、その姿を見て、どの闘鶏も戦う気力を失い逃げ出してしまったのです。戦いというものはこうでなければいけません。徳が充実してくれば戦わずして勝つ。つまり、相手を飲み込んでしまう事が起きるものです。

これは気迫によって相手を負かす事の例ですが、政治の駆け引きや商談の場でもそういうケースは多くあって『相手になめられていては勝負に勝てない』という部分です。誰かに嘘をつくのではなく、自分がそうと信じ込む事で強くなれるのだと思います。

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