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「身体が覚えている」という感覚

ふと久しぶりにピアノを弾くと、「あれ、意外と弾けるな」と思うことが私はよくある。むしろ楽譜を読もうとするとうまく弾けず、”感覚”で弾く方がうまく弾けるのである。


この感覚を体験すると、私は練習の大切さと人間の脳の面白さを感じる。

例えば、「楽譜通りにピアノを弾くロボット」を開発しようとしたとき、どのようなフローを考えるだろうか。

楽譜をカメラで検知する→画像処理を行い、何の音を弾くべきかを導き出す→指先に命令を送る→その音を弾く動作を行う

次に、事前に弾く曲をインプットさせておいて、「インプットしてある曲を弾くロボット」を開発しようとしたとき、どのようなフローを考えるだろうか。

データから指先に命令を送る→その音を弾く動作を行う


もちろんそんな簡単に開発できるわけではないとはわかってはいるものの、どちらのロボットを先に開発するか?といったとき、おそらく「インプットしてある曲を弾くロボット」の方が簡単で正確だろう。

ここで話したいのは、ロボットを開発したいということではなく、人間も練習によってインプットしておいたほうが、その場で楽譜をみて考えるよりも正確に弾けることがある、ということである。

また、面白いことに、人間は「楽譜を見て弾く」と「インプットしてある曲を弾く」の両方の機能を同時に動作しようとして、むしろ弾けなくなることがある。ピアノのコンサートのように緊張する舞台では特に起こり、「安全のため」と楽譜を置いておくと、むしろうまく弾けなくなってしまったり、練習では一度も間違えていなかったところを間違えてしまったりといったことがある。(これは経験談である。)


これはピアノに限らず、スポーツの世界では特にある感覚だと思う。よくスポーツのマンガで、「次の相手の動きが分かる」「ゴールまでのコースが見える」といった表現をみかけるが、おそらくそれはあながち間違いではなく、それに近い状態、いわゆる「ゾーンに入っている」状態なのではないかと思う。何をしても絶対にうまくいく。ある意味超次元の時間。


この感覚は、ある意味「無意識」に近い状態で、脳の処理を置いてけぼりにして(正確には処理しているだろうが、感覚的には「身体が勝手に動いている」のような)行動している。これは日常生活をしているとあまり感じることがない。テレビやYouTube等で「すごい人」のプレイやピアノを弾く様子を見ると、「すげーなあ」と思うだけなのである。

そのような「すげーなあ」、すなわち、「身体が覚えている」という感覚をふと自分自身で感じたとき、一種の喜びと快感を感じるのである。


家にいる時間が長く、なかなか気分転換もしにくい状況だからこそ、こういったちょっとした体験をしてみると、少しだけ人生が楽しく過ごせるのではないだろうか。


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