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甲子園(20分間小説)

【あらすじ】
高校時代野球部で時間を共にした3人が30年後、甲子園を目指す母校と息子を応援しながら、自らの30年前を重ねていくショートストーリー。タイトルは甲子園だが、登場する球場は神宮球場のみ。
文庫本にして、およそ25ページ程度(16000字強)

【本編】
「ただいま~」誰もいない玄関を開けて藍里(アイリ)は明るい声で言った。先に上がり、客用のスリッパを揃えて「さ、入って入って」と稔(ミノル)に手招きする。郵便受けの確認をしていた敏(サトシ)はそこから一拍置いて玄関に入ってきた。

大きなスリッパを用意したが稔にはやはり小さい。つっかけるようにスリッパを履いてリビングにモソモソと入ってきた。藍里はサッとランドリーに行って取ってきたタオルを、稔と敏にホイッ、ホイッと言って投げた。
「濡れてたら、これで拭いて」
「お、サンキュー、さすが我がチームのマネージャー」稔がおどけて言いながら、左手でキャッチしたタオルで頭をゴシゴシ拭く。敏もタオルを受け取って頭を拭いた。

さっきまで何とか降らずにいてくれた夏の曇り空だったが、試合が終わるのを見届けて一気に黒雲になったかと思ったら、ザァーッと通り雨になった。3人が家に着くあとわずかのところだった。

頭を拭き終わって、そのタオルを首にかけた稔は両端を持ちながらリビングの中を歩き出した。
稔がいると部屋が小さく感じる。前来た時より更に大きくなったのではないか、動物園で見た檻のクマの徘徊のようだな。そう思ったら檻に入っている稔の姿を想像してしまい笑いが込み上げてきたが、悟られないようにギュッと口を横に絞った。

「この家に来るの久しぶりだなぁ、いつ以来だろ」と、聞いているのか独り言なのかわからない、懐かしさを含んだ口調で言った。視線はあたりを見渡している。
敏は稔に答えたものか一瞬考えたが、稔がテレビ脇の壁にピクチャーレールで吊った白黒のパネル写真をジッと見出したので、ちょうど良いかと思い、答えた。
「峻(シュン)が高校に入ってからは初めてだから3年近く経っているんじゃないかな」敏が答えたおかげで会話が続いた。
「もう3年も来ていなかったか」感慨深げに言う。視線の先は写真のままだ。一拍置いて言った。
「いや、それにしても今日の峻はすごかったなぁ、MVPだよ、なあ」
敏を振り向きながら言った。感慨深さはすでになく、いつもの大きな声になっていた。切り替えが早いのも昔からだ。そして稔のこのセリフ、今日2度目だ、相変わらず語彙力が少ない。高校野球にはMVPもない。
稔は再びパネル写真を指差して言った。
「ところで、これはいつの?」
「それは、去年の秋季大会の写真よ。よく撮れてるでしょ?新聞社からパネル付きでもらったのよ」答えたのは藍里だった。オープンキッチンからこっちを見ながら嬉しそうに答える。

写っているのは、ランナーとキャッチャーがホーム上で交錯している写真だ。

カメラのアングルは1塁側から。写真は主審をほぼ中央において、手前にホームベース。右側、すなわち3塁側から峻がヘッドスライディング、ホームベースに左手を精一杯伸ばしている。指先はベースの角に届いていた。バックホームのボールは1塁側に外れたのだろうか、キャッチャーは写真左側から峻に向かって飛び込みながらミットが峻を目指す。そのミットはわずかに峻の指先に届いていない。主審はかなり低い中腰の姿勢でホームページの出来事を食い入るように覗き込む。そんな写真だった。この1秒後、主審の両手が水平に広げられ、峻のチームはサヨナラ勝ちした。

この試合が準々決勝だった。秋の大会は次の準決勝まで進んだがそこで涙を飲んだ。ただし、この写真は、選手と審判の躍動や緊張の一瞬を切り取っていたと言うことで、反響も大きく、その後新聞社が毎年表彰している報道写真のスポーツ部門で去年の最優秀賞を受賞した。発表から数日経って新聞社から拡大した写真がパネル付きで贈られてきた。稔が見ていたパネル写真はその時のものだ。

「いい写真だな。それにしても峻は持ってる男だな」稔が感想を漏らした。そして続けた。「俺たちが見れなかった景色を峻は見れるといいな」

藍里が答えた。「そうね、私たちにも見せてほしいわね。その景色」
敏が言った。「絶対行けるよ、甲子園」峻ならやってくれる、そう信じていた。


週の初めに稔から3人のLINEグループに連絡があった。稔からの連絡はいつ以来だろう。稔は、勤めている銀行の上海支店長を拝命し赴任していた。一つ前のメッセージを確認したら家で稔の壮行会をした時のやり取りが最後だった。帰ってきたんだな、と着信を見て思いながらメッセージを開けた。
【今度の土曜日、うちの高校が勝ち進んでいたら応援に行かないか?】

うちの高校か。峻が自分たちと同じ高校に進んだことは知らないんだな、敏は思った。敏は峻の出る試合はずっと見に行っている。もちろんこの土曜日もその予定にしていた。稔に返信した。
【峻が出る。藍里と3人で行こう。間違いなく勝ち進む。夜はうちに来て祝杯はどうだ?】

水曜日の準々決勝は、会社を午後休んだ。藍里と応援に行った。乱打戦だった。最終回相手校の粘りに肝を冷やしたが辛くも1点差でしのぎ切った。峻の、そして藍里と敏の高校が30年ぶりに夏の東東京大会ベスト4に進んだ。甲子園初出場まであと2勝。30年前の雪辱を峻に託す土曜日まであと3日。そこからの2日間、敏は仕事が全く手につかなかった。


30年前の夏。敏と稔が野球部員として甲子園を目指した最後の夏。甲子園出場のない都立高校。毎年それなりの成績は残してきた。東東京大会ベスト8も過去に数度あった。この年は牽引役の稔を先頭に、例年になく層が厚い。トーナメントの妙でひょっとしたら甲子園初出場もあるという予想を掲げるスポーツ紙もあった。下馬評に勢いを借り、敏たちは勝ち上がり準々決勝進出を果たした。ベスト8は10年ぶりだった。次勝てばベスト4、創部して初の偉業だ。

稔は高校生離れした体躯、強肩のスラッガー。この大会でも調子が良く、ここまで2本のホームランを放っていた。敏は対照的に小兵。公称170cmだったが実際は少し足りていなかった。敏の背番号は二桁番号だったが、名前の通り足はめっぽう早く、守備も良かったので、代走や守備固めで試合に出る機会はあった。この大会でも2試合に途中出場して1盗塁を決め、2回の守備機会をしっかりこなしていた。

敏はマネージャーの次に小さかった、すなわち選手では一番小柄だった。一方で稔はチームの中で一回り体が大きかった。敏と稔は入部以来いつも一緒にいた。みんなからは凸凹コンビと言われていた。お互い張り合う部分がなかったから仲良いんじゃないと、部内で一番小さかったマネージャーの藍里には分析されていた。確かに、稔は選手としては唯一足が遅いことが弱点だった。藍里の分析は一理あると思いながら、敏は別の理由もあることを知っていた。

藍里と敏は同じ中学出身だった。中学時代も野球部でマネージャーと選手の関係、もっと言うと小学校も同じ幼馴染だった。恋心はなかったが、小さい頃からずっと一緒だった腐れ縁もあって仲は良かった。

小さい頃から藍里はショートカット、明るくて、いつも仲間の輪の真ん中にいた。高校に入った頃、青春ドラマで一気に人気となった女性俳優や、薬用ローションのCMでブレークしたダンスユニットのボーカルに似ていると言われ、中学時代以上に人気者になった。

入部して間も無く、稔から「敏は藍里と付き合っているのか」と聞かれたことがある。稔は藍里のことが気になっていたのだ。付き合ってないと事実を答えたが、稔はなかなか信じなかった。信じるようになった頃「付き合ってないなら協力してくれ」と言われてキューピッド役を頼まれた。藍里にはその気はなさそうだと思いながらも、大男の恋心を無碍にもできず、敏はその役を果たした。練習のない日に3人でファミレスに行ったり、映画に付き合ったりした。大男と小柄な2人が一緒にいるところは街を歩いていると目立った。敏は稔といる時間が多くなっていった。相談にも乗った。そうしているうちに普通に、いや普通以上に仲良くなっていた。

稔にとって、藍里にいいところを見せることはモチベーションだった。純情な大男は甲子園に行ったら藍里に告白するとずっと言っていた。3年越しの告白まであと3勝だ。


稔の回遊もひと心地ついたところで2人ソファについた。
「さ、そしたら乾杯、いえ祝杯しましょうか」藍里は冷蔵庫から缶ビールを3本出してきて遅れてソファについた。プシュ プシュ プシュ、3人各自でプルタブを開けた。藍里と敏が開けるのを見届け稔が言った。
「それじゃ、我が母校と峻の甲子園出場を信じてカンパーイ!」家の中とは思えない大音量の発声で久しぶりのミニ同窓会は始まった。今日は家でゆっくりやろうということで、最近近所で流行りのイタリアンをデリバリーで頼んでおいた。ちょうど乾杯した頃に配達員がやってきた。ローテーブルに置いてみると料理は大人3人では少し多いかなという量だったが、今日は稔が一緒だ、きっと大丈夫だろう。早速オードブルに手を出しながら稔が言う。
「こうしてうまい酒と料理が楽しめるのは、峻のおかげだな。峻、悪い、今日は飲ませてもらう。その代わり大人になったら今日のお礼はさせてもらうぞ」悪いとは到底思えない表情でビールと料理を大きな体に流し込んでいく。

「そろそろ始まるかな」敏はリビングの壁掛け時計を見やってから、その下に置かれたテレビをつけた。パッと神宮球場が映った。さっきまで峻たちが熱く戦っていた場は、プロ野球の試合を中継していた。神宮球場をホームにするチームのナイターだった。
「そっか、今日はプロ野球の試合もあるんだな」稔が言った。
「ホントね。球場も大忙しね フフ」と言って藍里は自分の言葉で笑っている。藍里も今日はいつも以上に楽しそうだ。
「さっきまで俺たちあそこで応援してたんだな。こうしてテレビで見る球場って、実際より小さく見えるんだな」テレビに目を移した稔は、そんな感想を言いながら、変わらないペースでビールと食事を口に運んでいる。お前、大学時代までここでさんざんやってただろ、と敏は心で突っ込んでやった。

薄暮の中、試合は始まった。1回表は三者凡退、静かな立ち上がりだった。その裏、試合は早速動いた。
制球がまだ定まらない相手先発からホームチームの先頭打者が四球を選んだ。2番打者はきっちりバントで送り、1アウトランナー2塁となった。先制点のチャンスだ。

バントの場面に触発されたのか、稔がテレビを見ながら言った。
「それにしても峻のバントすごかったなぁ」確かにその場面は今日のハイライトだったが、このセリフ3回目だぞ、もう酔っているな。敏は稔の赤らんだ横顔を見て思った。


峻はこの試合に勝てば、母校初の東東京大会決勝進出がかかっている。自分たちが見ることができなかった景色を峻が見せてくれると信じて、敏たち3人は1塁側スタンド最前列に陣取った。峻と少しでも同じ空気を感じたかった。試合前の練習、プレイボール直前の円陣、相手校との挨拶に向かうダッシュ、そして審判に促されての敬礼、敏の気持ちはグラウンドにいた。

今年は先週すでに梅雨明けしていた。にもかかわらず梅雨明けしてからの方が天候不順だった。今日も一面曇天だ。そんな空に向かってサイレンが響き渡った。
さあ試合だ。

試合は序盤から動いた。2回までにそれぞれ1点ずつ入れた。峻自体はここまでのところ、無難な立ち上がりだった。守備では初回表自分の正面に来たセカンドゴロを正確に捌いた。攻撃では初回裏、先頭打者として左打席に入って積極的に初球を振りにいったがセンターフライだった。そんなプレーの一つ一つに敏はファイプレーをした選手に対してのように
「ナイスセカンド!」
「そうだそうだ、積極的に打ってこー!」
と大きな声援を送った。峻はその度チラッとスタンドを見てくれた。わずかなアイコンタクトで、グラウンドで戦っている息子と繋がっている気持ちになった。

3回以降試合は落ち着いていった。投手戦が続いて、7回まで終わった。1対1のまま、お互い追加点が入らない。チャンスらしいチャンスもない膠着状態。残りは2回、お互いに一分のミスも、一瞬の隙も許されない終盤に入っていった。

8回表、じわじわと試合が動き出す。相手校の攻撃は2アウトながらランナー2塁3塁となった。次の打者の初球はセカンドゴロ、峻の出番だ。少しファンブルした。敏は「あ」と声を漏らした。ほんの一瞬の出来事だったが敏の脳裏に「あの時」のことがよぎった。敏の体が硬くなる。その心配をよそに峻は落ち着いてボールを握り直し、ファーストに投げた。アウトだ。3アウトになった。3塁ランナーのホームインは認められず辛くもこの回も0点に凌いだ。

自分のような「あの時」を味わわずに済んだ。峻は大丈夫だ、敏は安堵した。そして応援のギアを更に一段上げた。


「あの時」まで2時間半前。梅雨空のもと敏たちの準々決勝は始まった。両チームともにノーシードからの勝ち上がり、シード校を破って東東京大会ベスト8進出を果たしていた。

敏たちのチームは先攻だった。敏はこの試合もベンチスタートだ。初回表相手投手の制球が散らばる中、先頭打者が四球を選んだ。続く2番打者が送りバントで1アウト2塁。次の3番打者は打ち急いで1球目をショートポップフライ。2死2塁になったところで4番の稔に打席が回ってきた。

稔は初球を振り抜いた。カキーンという鋭い音を放ったボールはセンター頭上を抜けてあわやバックスクリーンに届きそうだったが、わずかに風に戻されてフェンス上段に当たった。センターがクッションボールの処理をしている間に、2塁ランナーは悠々ホームインした。稔はドタドタと必死に3塁を狙ったが、ここはあえなくアウト。ただしホームインが先だったので1点は認められた。これが唯一の得点、俗に言うスミイチだった。その後は相手投手も立ち直っての投手戦となった。

回を追うごとに両チームの緊張は高まりながら、2時間があっという間に過ぎた。8回が終わり、あとはそれぞれ1回ずつの攻撃を残すのみとなったところで、先に空の緊張が解けた。降るのを我慢していた黒みがかった厚い雲が堰を切った。スコールだ。みるみるうちにグラウンドの土が黒くなっていき、間も無く内野のところどころに水溜まりができた。主審が線審たちを集めた。わずかな協議をして、すぐに一時中断が放送された。敏はベンチから空を見上げた。このままコールドで終わってほしくもあったし、最後までやってスッキリと勝ちたい気持ちもあった。正直五分五分の気持ち、いや少し前者が勝っていたか。

そんな気持ちを察した天の差配か、少しして西の空が少し明るさを取り戻してきた。10分ほど経ったところで球場も天気雨になった。スコールは去った。まだわずかな雨粒が落ちてきているが、グラウンドキーパーが内野を中心にトンボで整地を始めた。主審が出てきた。グラウンドの状況を丹念に見て周り、線審たちとバックネット裏前で小さな車座になって話をした後マイクを持った。試合再開だ。1対0、勝ち切るぞ、稔は全員を集めて円陣を組んだ。

9回表が始まった。中断があっても相手投手の緊張は途切れていなかった。むしろ、最終回、自チームの攻撃のためにもう1点もやらないという気迫がボールに乗り移っていた。敏たちのチームはこの回、7番打者からの下位打線だったこともあり、三振、ファーストフライ、セカンドゴロの3者凡退、あっという間に攻撃が終わった。2アウト後のゴロをセカンドは取りにくそうだったが、正面だったこともあって、かろうじてグラブに収めて落ち着いて一塁に投げてアウトにした。セカンド選手は右の拳を軽く上げ、投手はグラブを右手でポンと叩き、ベンチに駆けていく。

試合開始から間も無く2時間半。9回裏、この回を守り切れば初の準決勝だ。監督は守備を固めに入った。選手を大きく交代させた。最初から出場していた選手のユニフォームは泥だらけ、交代した選手は真っ白なユニフォーム、わかりやすい。敏も汚れのないユニフォームでショートのポジションに駆けた。ぬかんでるな、走りながら敏は思った。

この回相手チームの打順はクリーンナップからだ。先頭の3番打者は今日こそまだ快音がないが地区予選は打率4割以上のアベレージヒッターだ。球に目が慣れてきた4打席目のここは怖い。初球変化球から入ったボールに、バットが空を切る。強振してきたぞ、タイミングが合ったらまずいな、敏は思った。少し守備位置を後ろにとった。2球目、またしても変化球、ここは手を出さない、外角いっぱいのスライダー、判定はストライク。ノーボール2ストライクに追い込んだ、投手有利、組み立ての幅が広がる3球目、一度キャッチャーのサインに首を横に振った後頷いて放ったボールは外角低めの直球だ。直球待ちだったバッターは、多少外に行ったボールに体が泳ぎつつも食らいつきながらしっかり振り切る。カキン。バットの先に当たったが振り抜いた分ボールはレフト方向に引っ張られ、鋭い当たりのショートゴロになった。

来た。ボールは敏の真正面に来た。しっかり腰を落としてキャッチした。グラブの中でボールを探った。濡れている。しっかり握ることだけを考えて取り出して、ファーストに放る。慎重な分、少し緩い球になり、際どくなってしまったがアウト。まずは1アウトだ。敏はホッとした。普段は何でもない正面のゴロにひどく緊張した。グラウンドコンディションのせいもあったが、何より球場全体の何百何千の様々な祈りや願いが混じった強く熱い視線に、これまでの人生で感じたことのない重圧を感じた。味方ベンチとスタンドからの歓声が耳に入ってきたのを感じて、少しだけ硬さは取れた。

続く4番打者。まだ気は抜けない。地区予選ここまで3本のホームランを放っているスラッガーだ。今日は際どいボールをしっかり選び3四球だった。3番打者と違い、ボールの見極めをして一振りで決めてくるタイプだ。右打席にゆっくり入る。初球が放られた。直球だった。キャッチャーは外角に構えていたが、気持ち内角それも高めに入ってしまった。この打者は決して甘い球を見逃さない、ぐっと腰を入れ振った。キン。鋭く短い金属音とともに、強い打球が3塁線を襲う。ライナーだ。サードが反射的に横っ飛ぶ。左手のグラブを精一杯伸ばす。グラブの先っぽに入ったボールはグラブの中で暴れる。グラブをレフトの方に持っていこうとする。サードはそのグラブを離さない。スライディングの勢いで水飛沫を上げながら一通り滑りきった後、横たわったまま左手のグラブだけを高く突き出す。線審がサムアップした右手を素早く上げた。アウトだ。大歓声と悲鳴が交差する。

一番近くで見ていた敏はその一瞬の出来事に体を硬直させ、祈り、そして脱力した。

2アウト。天のいたずらか、やみかけた雨が再び強くなった。だがこのタイミングでもあり、主審は協議なく試合続行を選んだ。ここでベンチから控えの選手がタイムを取り、投手に駆け寄る。ロージンバッグを1つ渡した。投手の手元にあるものは濡れて役に立たなかった。控え選手がベンチに戻ったところで主審の右手が上がる。試合再開だ。一気に決めたい。

ロージンバッグのおかげで白くなった指先は一瞬乾いたように見えたが、すぐに雨粒に流されていく。コントロールが微妙にずれる。続く5、6番打者はバットを振らない。ここで2者連続の四球。2アウト1塁2塁になった。一打同点、長打が出たら逆転される。相手ベンチと応援席の勢いが増す。一方守っているグラウンドは緊張のヴェールに覆われていた。そのヴェールを打ち破ろうと内野が集まる。投手におのおの声をかける。打たせていこう、後は任せろ、と。

続くバッターはこの日1本ヒットを打っている7番バッター。左打席に入った。内野の守備陣は1塁寄りにシフトする。アウト一つでいいので、ゴロが来たらどの塁でもアウトにできるところに投げさえすれば勝てる。この打者がさっき打ったヒットはライトへのクリーンヒットだった。敏はそれを思い出しながら2塁寄りにシフトした。2塁と3塁の間がかなり空いた。

投手は丁寧に直球を低めに投げることだけに集中する。初球を放った。球速は出ない。遅い直球が少し高め、ストライクゾーンど真ん中に入ってしまった。あまりに絶好球だったために、バッターは思わず手を出した。一瞬躊躇した分、振り遅れた。ガキン、バットの先に当たった。鋭くショート正面にボールが飛んだ。今はガラ空きのスペースだ。左中間に抜けたら長打になってしまう、絶対に取るんだ、敏は本来の定位置に向かって飛んだ。マウンドの少し後ろでワンバウンドしたボールはぬかるんだ地面のせいで、スピードが少し緩む。そのおかげで敏のグラブは間に合った。間に合ったが、雨でバウンドしない分、高さがずれた。敏の伸ばしたグラブの下をボールがすり抜けた。この感触は今でも忘れない。手応えのないグラブを左手がギュッと締め付けるあの感覚。ガッツポーズして走る7番バッターと一瞬目が合った。

終わった。

倒れたまま起きることも首を上げることもできなかった。何も聞こえなかった。
ただ「その時」稔の告白ダメにしちゃったな、そんなことだけが頭をよぎった。


敏はスタンド一番の大声で峻がベンチに戻るのを拍手で迎えた。
「セカンド、ナイスプレー!さあ、攻撃だ!」目が合った。峻が小さく頷いた。

峻たちの攻撃もこの回を入れてあと2回。できればこの回に点数を入れて、攻撃はこの1回で終わって欲しい。相手投手が2番手に交代した。この大会、全ての試合で出場している抑えのエースだ。本格派ではないが、サウスポーに加え球種が多く、打者を翻弄する。短いイニングでは的を絞るのが難しい相手だ。今日も緩急織り交ぜた投球が快調だ。二者連続で空振り三振で、あっという間に2アウトになってしまった。敏たちのスタンドがため息で覆われた。

ネクストバッターズサークルにいた峻が、左打席に入った。

敏は自分が打席に入っているような気持ちで祈る。
「さあバッター積極的に打っていこーぜ!」稔が言う。前の2人には直球から入っていたのを見て峻は初球に狙いを定めた。狙い通り直球が来た。

構えたバットをスッと寝かした。2アウトランナーなしからのバントだった。

勢いを殺した打球が3塁側に転がった。いいバントだ。相手校の3塁は一瞬虚を突かれた。一歩目が遅れた。その遅れの分、1塁にヘッドスラインディングした峻の指先が間一髪先にベースに触った。

2アウト1塁、勝ち越しのランナーが出た。立ち上がった峻が、敏たちのいる1塁側スタンドに向かって、右拳を突き上げた。ユニフォームは校名が見えないほど土だらけ、ヘルメットが目深になり白い歯しか見えなかった。敏たちは精一杯の拍手と大きなエールを送った。スタンドの応援も息を吹き返した。

次の打者が左打席に入る。相手投手は峻の足を警戒していた。峻は挑発するように、相手投手の目を見ながら敢えてリードを一歩多く取った。2回牽制があった。いずれもヘッドスライディングで帰塁した。間一髪のようなタッチを受けたが、峻の中では余裕があった。

3回目の牽制、峻は三たびヘッドスライディングをした。そのボールがわずかに2塁側に逸れた。

ファーストの選手が峻と交錯してボールをはじいた。峻はすかさず立ち上がり、2塁に向かって走り出す。今度は足からスライディングした。セーフ。これで2アウトながら2塁、峻の足ならシングルヒットで戻れる。

稔も息を飲んで両手を握り締める。藍里、敏、稔3人とも、同じ祈りに似た姿勢でグラウンドを見つめる。

ここで相手投手は打者との勝負を決めたのだろう、2塁の峻を振り返りつつも牽制球は放らない。ようやく初球を投げた。直球、空振り。2球目、カーブで空振り。後がない。2塁にいる峻は精一杯揺さぶりをかけるために、リードを大きく取った。相手投手はそれでも動じず、渾身の直球を打者に投げた。振った、かろうじて当たった。振り遅れた打球は投手と3塁の間にボテボテと転がった。打った瞬間、峻はその行方も見ずに走り出した。3塁だけを見て走る。コーチャーズボックスの選手が手を回している。

え?何が起きてる?ホーム目指しちゃっていいのか?

迷ったが、振り返る余裕はない、信じて走る。3塁を回った。2塁でのリードが大きかったせいで助走が短くなった分、3塁に着くあたりで加速がついてしまった。コーナーで少し大回りになってしまったが、峻はお構いなしにホームを目指した。

キャッチャーが視界に入った。マスクを外したキャッチャーは、1塁方向を見て呆然と立ち尽くしていた。その姿を見て、スライディングすることなくホームベースの真ん中をしっかり左足で踏んだ。すぐに1塁を見た。カバーに来ていたライトの選手が2塁にボールを投げていた。打者は2塁でアウトになった。ここで3アウト。峻のホームインが早かったため、得点は認められた。

打球は結果的にバントのようなゴロになって投手の前、少し3塁寄りに転がっていた。そのボールを投手は素手で拾った。3塁を見た。峻を刺すのは厳しいと判断し、一瞬躊躇した。咄嗟に向き直して1塁に投げた。少し逸れた。走る打者とボールが重なってファーストが後逸した。

勝ち越したこの1点をその裏峻たちはきっちり守り切った。決勝進出だ。敏たちの夢でもあった甲子園まであと1勝、スタンドで3人は交互にハイタッチをした。試合終了の整列に走る選手たちに3人はエールを送る。
「峻よくやった!」稔が言う。
「あと1勝よ!」藍里が言う。

敏もホームを踏んだ峻を見た時、思わず立ち上がり握った両拳を天に突き出し「ウォーッ!」と叫んだ。

その時、1塁側を見て放心するキャッチャーの横顔が目に入った。敏の脳裏に「あの時」の自分が急に重なった。上げた拳がストンと落ちた。立ち尽くすキャッチャーの奥に相手校のベンチが見えた。選手たちは、おのおのの表情に悔しさを浮かべながら整列に向かう。足取りは重い。

ベンチの一番左にいた監督が、身じろぎせず少しの間、天を仰いでから、整列に駆け出す選手たちの後ろ姿を見送っていた。そのたたずまいに胸がギュッと締まった。敏は稔と藍里に少し遅れて言った。
「両チーム素晴らしい試合だった!両チームとも最高だ!」


30年来、藍里と稔は「あの時」のことを言う。今日も始まった。だいぶ酒も回り、峻の話から昔話に話題が移った頃だった。
「ホントあの時の敏、ナイスエラーだったわよね。芸術的だった、うん、マジックマンだった」藍里が言う。この30年何度聞いたことだろう。形容がどんどん進化していく。
「ちょっとでも敏のグローブにかすっていたらホームは間に合わなかったな」稔も笑いながら言う。2人ともこの話の時は本当に楽しそうにしている。こっちはどれだけ引きずってきたと思ってるんだ、敏は心で呟く、今日も呟いた。場を壊さないために、いつも声にはしない。

「ホントよね。ボールがすり抜けて稔のグラブに吸い込まれて行ったものね」ディテールに入っていく。この会話は2人に任せておこう。敏はテレビのプロ野球に目をやる。6回がもうすぐ終わる。試合はリードしていたホームチームが追加点のチャンスで球場は盛り上がっていた。敏も1人、試合に入り込み始めた。

藍里と敏のナイスエラー話もBGMになり耳に入ってこなくなったきていた。ひと段落したのか、稔が敏に向かって話しかけてきた。
「そういえば、今日なんで敏を誘ったか知ってるか?」
え? 不意にどうした、母校の応援じゃなかったのか? それ以外の理由が稔にあったのか? 小首をひねりながら稔を見た。稔は続けて聞いてくる。
「今日の相手校の監督覚えてないか?」 監督・・、あの天を仰いでいた彼か。誰だっけ? 敏が頭でそう聞き返しているのを知っているかのように、稔がタイミングを図って言う。
「吉沢だよ」吉沢? うーん、何か聞き覚えがある。

あ、
「あの時」の7番バッターだ。30年前のガッツポーズがフラッシュバックした。


「あの時」ボールを逃して立ち上がれないでいた敏の後ろには稔がいた。外野陣は前進守備をしていた。外野を抜けて行ったらどのみちホームは間に合わない。ならばヒットでもホームを刺せるところにいよう、外野全員がそう思い自分のところにボールが飛んできたときにバックホームで刺せる距離を計算してポジションについていた。稔も、左斜め前にいる敏の強張った表情がハッキリわかるくらい近いところまで前進していた。

7番バッターの振り遅れた打球が、それでもかなりの鋭さで稔の方向に向かってきた。

来い!そう思ってキャッチャーまでの距離を測りながら、更に前進していく。その時だった。

あ!水平にジャンプしてきた敏が急に左の視界から入ってきた。一瞬ボールが消えた。敏の体は放物線を描いて視界の右側に滑りこんでいった。直後ボールが再び現れた。稔の計算通りの場所にやってくる。前傾のまま腰を更に低くして左手のグラブをボールの軌道に合わせる。キャッチした。

よし!間に合う!バックホームをした。光芒一閃。

狙い通りストライクでキャッチャーのミットに吸い込まれた。敏がエラーしたのを見届けてスタートをしていたセカンドランナーは、ホームから数メートル手前の、本来であればここからスライディングという位置で立ちすくした。それほど綺麗な返球だった。

敏のグラブを抜けた時にガッツポーズで一塁を踏んだ7番バッターも1塁を回って2塁に向かいながら、ホームのプレーを見て、走るのをやめた。減速し止まった後、うなだれ、両手のひらを膝について、そのまま動けなくなっていた。

ゲームセット!主審の大きな声がグラウンドに響き渡る。1塁スタンドからは大歓声、3塁スタンドからは悲鳴とため息が漏れた。

ボールの行方を追うこともできずに横たわっていた敏は、主審の声でようやく頭をゆっくりともたげた。突如敏の空が暗くなった。見上げると稔が大きな体で空を覆っていた。
「勝ったぞ」稔はそう言いながら顔を近づけてきた。

ゲームが終わっていた。何が起きたのか飲み込めないまま稔に起こされ、促されて一緒に整列に向かった。敏のユニフォームはこのワンプレーで最初から出場していた選手以上に泥まみれだった。

整列した時に、相手チームの整列越しに、綺麗で大きな虹が見えた。


藍里と敏は総武線の信濃町駅を目指していた。今日は、稔の春の東京六大学デビュー戦の日だ。2人で神宮球場に応援だった。市ヶ谷駅を通過した。「来年の今頃はここに通ってるんだ」藍里が目をキラキラとさせて言った。市ヶ谷は藍里の第一志望大学がある駅だ。

そうしたら稔の応援は一体どうするのだろう、と敏は思った。その大学は今日稔の対戦相手だった。

稔は、去年秋のドラフトで神宮球場をホームとする球団に7位での指名を受けていたが、それを断り東京六大学の強豪校に野球推薦で入学していた。話題の1年生と言うことで春の六大学リーグ戦から先発出場をする発表がされていた。

前の年、稔のストライク返球で劇的に9回裏をしのいだ敏たちの高校は、その次の試合、準決勝で敗退していた。甲子園常連校との対戦で、1点差まで詰め寄った9回、ランナー1人を置いて稔に打順が回ってきた。一打逆転のチャンスだった。ここで稔が打った打球はバックスクリーン近くまで飛んだが、稔シフトを敷いて深く守っていたセンターのグラブに収まって終了した。

この試合、敏の出番はなかった。

敏たちの夏、そして3年間はここで終わった。敏は左手に忘れない感覚が残ったまま卒業した。敏はしばらく勉強に向かうことができず浪人することになった。藍里は、第一志望にこだわりやはり浪人した。

部活動を引退したあと、甲子園に行ったら告白すると言っていた稔は、甲子園に行けなかったにも関わらず、藍里に告白すると敏に宣言した。甲子園は行けなかったけれど、高校初の東東京大会ベスト4になったから、という都合の良い理由を敏に語った。だったら最初からそう言えば、自分も「あの時」あんな気持ちにならなくて良かったのに。

藍里に告白した稔はあっさり振られた。藍里はこう言ったそうだ。
「甲子園に行けなかった分、稔にはもっと高みに行ってほしいし、私たちにもその景色を見せてほしい。自分と恋愛することでそれが見れなくなったら責任取れない」
その話を稔から聞いたのは、敏が藍里と結婚してしばらくした後だった。そして藍里のこの言葉で稔がドラフトを断っていたこともその時に聞いた。もっとすごい選手になって大学を出たらドラフト1位で指名を受ける、そしてそこに辿り着いた景色を藍里と一緒に見ると決めたからだったそうだ。

信濃町駅に着いた。歩いていると神宮球場が見えてきた。
「ここで私たち去年野球やってたんだね」藍里がしみじみと言う。敏が特に何も答えないでいると「それにしても最後の試合、敏はナイスエラーだったよね」突然笑いながら言う。この時からだ、この話が笑い話になって、ことあるたびに言われるようになったのは。
何言ってんだ、人の神経に素手で触ってくるようなこと言って、しかも最後の試合はもう一試合後だし、と心で突っ込んだ。

今でもそうだが、この話にはどう答えていいかわからない。このときもそうだった。話を逸らすつもりで言った。
「そう言えば、稔の告白断ったんだよね。なんで?稔が藍里のこと好きだったの気づいてたでしょ?」
藍里の笑みが消えた。
「は?気づいてたでしょ、って? 敏、あんたホント鈍いわね。その名前変えたら?」
え、なんだなんだ? 
予期せぬ返事だった。


確かに今日の観戦は稔から今週誘われた。稔は峻が試合に出ていること、そもそも自分たちと同じ高校にいることを知らなかった。しかし母校が準決勝に出るなら、いてもたってもいられないだろうし、だから誘ってきたものと思っていた。

大学の野球部で稔は、吉沢、すなわち敏の左手に忘れない感触を残したあの7番バッターとチームメイトになっていた。そして「あの時」のことを吉沢からも聞かされていた。

敏のグラブを抜けた時は本当にラッキーだと思いガッツポーズを取ってしまった、と。
でも後ろにいた稔にあの返球をされて愕然として、天国からストンと落とされた、と。
後から思ったことは野球は相手のエラーのようなラッキーに喜んじゃダメなんだ、と。

そして、あの時のショートの放心顔と、立ち上がれなくなっていた姿を忘れることができない、と。

吉沢が大学を卒業して高校野球の監督になったのは、ラッキーなし、実力で甲子園に行けるチームを作りたいと言う理由だったそうだ。20年以上そのチームの監督をして今大会、ついにそのチャンスが来た。

吉沢から稔は、勝ち進んだら稔の母校と準決勝であたるという連絡をもらっていた。稔は敏に「あの時」と決別させるいい機会になるのでは、と思って敏を誘った。
あっちが勝ったら吉沢の話はしないつもりでいた。
敏を誘う前に、藍里にそのことを言っておこうと思って連絡した。

果たして、敏と吉沢は30年経って同じ球場にいた。立場は変わっていたが、心に「あの時」を抱えたまま時を過ごし、今日お互いに「あの時」と戦っていた。


藍里は1年間の浪人生活を経て第一志望の大学に入った。敏は地方の国立大学に受かったものの、家から通える利便性を考えて藍里と同じ大学に入学した。

大学に入ってからも藍里に言われたことをモチベーションにやってきた稔だったが、ある時、稔は藍里が敏のことを好きだと言うことに気づいたそうだ。3人で会って「あの時」の話をした時に、藍里は「最後の試合、敏はナイスエラーだったわよね」と言ったのだ。最後の試合はその後の準決勝だったはず、そのことに違和感を覚えていた稔だったが、敏を見ながらそう話す藍里の表情を見て腹落ちしたのだった。あれはチームの最後の試合じゃなくて、敏の最後の試合だったからそう言っていたのだと。

稔は順調に1年生の頃からしっかり成績を残していたが、4年生の春、肩を故障してしまった。ドラフトを半年後に控えての出来事だった。上位指名は固いだろうと周囲から言われていた中での故障に稔は絶望した。そこに献身的なサポートをしてくれたのがマネージャー、すなわち今日は仕事で来れなかった稔の妻だった。稔の人生はマネージャーに何かと縁がある。そして稔は切り替えが早い。大学卒業後稔は野球部OBの先輩に誘われて日本で3本の指に入る銀行に就職した。

稔の1年遅れで4年生になった時、藍里と敏もご多分に漏れず就職活動に精を出した。そしてそれぞれ違う就職先が決まった時、敏は初めて、藍里がいつか言っていた鈍いわねと言う言葉の意味に気がついた。ずっと一緒にいたせいで、この先一緒にいないことが想像できなかった。卒業する時に、敏はそんな内容の話を藍里にしたが、緊張しすぎてなんと言ったか今でも思い出せない。15年くらい一緒にいたはずなのに人はこれだけ緊張するのかという感覚だけ覚えている。

今でも敏のこの鈍感話は、ナイスエラーと並んで稔と藍里の鉄板お笑いネタになっている。


1週間前、3人のLINEグループに連絡が入る前、藍里は稔に相談されていたそうだ。吉沢から連絡があったのだけど、敏を誘っても良いかと。藍里は言ったそうだ。「敏ったら今でも時々お酒が入るとあの時の話をするのよ、もう聞き飽きたから、もうあの時と決別してもらうためにも一緒に行きましょう。息子の峻が出るから敏はもう行く気だけど、私たちが示し合わせているとは思われたくないから、そこは知らないふりして誘って」と。

2人はグルだった。

敏は、吉沢が監督になったこと、そしてその理由を聞いて、自分の他に「あの時」を抱えてきた人間がいることに驚いた。

そして、今でも「あの時」を引きずっている自分のことをいつも気にかけてくれ、茶化しているようで、その裏「あの時」を振り払わせようと考えてくれていた2人への感謝の気持ちが溢れてきた。

「もう「あの時」のことはいいんじゃない?」藍里が言った。
とたんに涙腺が緩んだ。この2人は最高の友だ、いや宝だ。そう思ったら涙が止まらなくなった。2人が泣いている自分を見て笑っている。嬉しかった、笑おうと思ったらもっと涙が出てきた。

「何泣いてんのよ」藍里はそう言って背中をバンバン叩く。小さい割に声も大きくて、力が強い。背中が痛い。一瞬咳き込む。あの日と一緒だ。エラーしたことのショックが大きくベンチに戻って泣いていた時に、背中をバンバン叩きながら「稔がカバーしてくれたじゃない、さすが最高の凸凹コンビ」と藍里は言ってくれた。その脇で稔が笑っていた。

思い出の中の灰色がかった「あの時」が敏の頭の中で、パッと明るく虹架かった。


峻は、明後日今このテレビに映っている球場で決勝戦を行う。
決勝戦に行くことを信じて先週のうちに休みは取ってある。
峻の晴れ舞台だ。
誰よりも大きい声で応援してやろう。
勝って甲子園に行ってほしい。

お母さんとお父さんが見れなかった景色を一緒に見たい。お前ならできる。

そして。
今一緒にいる仲間といれるあと少しの、とても貴重な時間を心に刻んでくれ、この3年間で得られた真の意味で友と言える仲間たちと過ごした時間は試合の結果以上に人生の宝になる。お父さんが保証する。お父さんににとってのお母さんや稔おじさんのような。

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プロ野球の中継はまもなくラッキーセブンが始まろうとするところだった。グラウンドでパフォーマンスをしている間、テレビでは今日の始球式の模様が流された。場内アナウンスは20年以上球場専属でやっている稔の妻の声だった。マウンドにいるのは、藍里が当時似ていると言われていたあの女性俳優だった。彼女にとって30年ぶりの始球式とのことだった。当時と変わらない愛らしい笑顔で、ツーバウンドのボールを投げて大歓声を浴びていた。

夕方ひと降りあった神宮球場には、大きな虹が出ていた。


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