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ひろえっちの本質ノート#7 コーチとしてのあり方とは?

ふて寝したくなるほどモヤモヤしている

私の仕事はコーチ・講師で、そんな私のコーチはダンナさんだ。
たいてい、私が仕事でモヤモヤしたら、ごはんを食べながらとか、お茶を飲みながらとか、起こった出来事や感じたことを話す。
今日は、たて続けに、自分の「あり方問題」を考えさせられる出来事が起きて、お昼を食べてから、しばらくその話をしていたのだ。
ダンナさんのクライアントさんは、継続期間も長く、辞める人が少ないの比べて、私の場合はといえば、フェードアウトしちゃったり、なかなか人数が増えなかったり、ってことが多い。
実力差だよね、で済ませることは簡単だけど、例によって、私の悪い癖で「私に一体何が足りないんだろう」という発想をし始めたら、本当にモヤモヤがMAXに達してしまった。
10年前にダンナさんと再婚した直後は、相当なスパルタだったので(苦笑)、私のできていないことをバンバン指摘されて、本当に「ふて寝」してた。
「もういいっ!」と言って、布団をかぶってそのまま寝ちゃう。
子どもみたいだけど、これで、一晩経つと、冷静になって、できてなかったところを改善し、また一段ステップアップ、そんなことを繰り返して10年。
ようやく、自分でやっていても、成果を感じられるようになった。
10年もやっていると、モヤモヤが高まってくると「あ、また成長の兆しだな」と自分でも思えるので、冷静に改善点を見つけて取り組む、という感じになって、だいぶスピード感が上がってきてはいるんだけど、今日はちょっと堪えた。

コーチにとって「クライアントを信じる」とは?

よく「信じる」については考える私。
「信用」とか「信頼」という言葉は、どことなく「条件」を設定している感がある。
「約束守ってくれるから信用できる」とか。
でも「信じる」は無条件。親が子どもを「信じる」のは「この子は悪いことはしないと信じている」じゃなくて「仮に犯罪を犯して、世の中全員がこの子から離れていったとしても、それでも私はこの子を信じる」みたいな感じ。
裏切られたらその相手を信じない、というのは普通だけど、親子だったら「何度裏切られても信じる」という心情になるものだろうなと思う。
親子ではないけど、コーチとクライアントの関係を考えたときに理想なのは、今がどんなにグダグダでダメダメだとしても、クライアントが必ずその人らしく幸せに生きられるようになる、という一点を信じ切るあり方が理想だ、と思っていて、自分が目指しているのも、そういうコーチのあり方だ。
今日もダンナさんと話していて「ひろえっちは本当にクライアントのことを信じているかな?」という問いに対しては「できてると思うけどなあ」と答えたんだけど、こういう答え方をすること自体、私は自分に腹が立ってしまった。
「信じてるよ」とスパッと言えなかったのは一体何なんだ?と。
あー、ここでもまた自分にダメ出ししているわー(苦笑)。

と、ここまで考えてみるとはっきりわかることは、私は、私のことを無条件に信じられていなかったのかもしれないな、という気づきだった。
調子良く仕事ができている時は、目の前のことに集中できているので、確信力が揺らぐことはないのに、どこかに思い通りにいかないものが出てくると、確信力が弱くなってしまうことがあるのかもしれないな、と。

魔女は自分の魔法力を疑ってはいけない

この話をするといつも思い出すのが、映画『魔女の宅急便』で、主人公のキキの魔法が弱くなってしまう場面だ。
それまで普通に会話できていたネコのジジの言葉も、ただの「ニャーニャー」になってしまって、ハッとするシーンは、何度見ても胸が苦しくなる。
私、自称「魔女」なので、そういう意味で身につまされる感じがしてしまう。
でも、最後、ボーイフレンドを助けなければ!と自分のスイッチが入った途端、魔法の力は蘇り、そこら辺にいたオジサンのデッキブラシで空を飛んだキキ。
あれは「自信があるかどうか」とは関係なく、目の前の課題を解決するために全力になったとき、自動的に発動する真の確信力を象徴しているんだろうなと思う。
キキはまだまだ修行中の身。調子が良かったり悪かったり、うまくいったり失敗したりを繰り返すけど、それに一喜一憂したり、他の人と比べたりせず「今できることを全力でやる」ということの繰り返しでしか、人は成長しないのだな、ということを思い出すのだ。
私は、魔女としてお手本にしたいなと思うのは、ハリー・ポッターに出てくる、ホグワーツ魔法学校のマクゴナガル先生、ってずっと言ってたんだけど、彼女、結構嫌われてるよね(笑)。いや、正確にいうと「恐れられている」のかな。
心根は本当に生徒思いで、良い魔法使いに育ってほしいという気持ちが、物言いや態度の厳しさに現れちゃってるんだな。
悪くないし、どっちかといえば、やっぱりマクゴナガル先生は好きだけど、コーチとしてのお手本にするなら、ダンブルドア校長先生か、魔女の宅急便のキキのお母さん、ってとこなのかもしれないな、と今日ちょっと思った。
キキのお母さんは、キキが旅立つ時に魔女のユニフォーム(?)を仕立ててやり、実にほんわかとした感じで娘を送り出した。
心配で仕方ないのかもしれないし、あれもこれも言っておきたいことだらけなのかもしれないけど、すべてを心にしまって、ただ娘を信じるだけ、という雰囲気が伝わってくる。
ダンブルドア先生も、多くを語らず、しかし、ハリーを心から大切に、信じている深い愛情みたいなものがじんわり滲み出ているなと思う。

離見の見

室町時代に、能を大成させた世阿弥が残した有名な言葉だ。
自分の姿を離れたところから、舞台全体を見下ろすかのように見る、つまり「自己客観視」の姿勢。
今まで、私にとっての離見の見は、自分がクライアントの立場だったらどうだろうか、というところまではできていたけど、大事な視点を見落としていたことに気づいた。
それは、今目の前にいるクライアントは、私と同じじゃない、っていう、実に当たり前なことだった。
自分の姿だけじゃなく、相手の姿やステージの様子、大道具小道具の佇まいや観客の空気感、それら全てを見ることが離見の見なのだとしたら、まだまだ見えてないことだらけだ。

ホント、成長するって「3歩進んで2歩下がる」みたい。
でも「完全にできるようになってからやる」なんてことしてたら、何もしないうちに人生The endだ。
もっと良くなれる、自分には伸びしろがある、そう捉えられるようになったことは本当に幸せなことだな、と思う。

というわけで、数年前はここまで整理するのに数日を要したわけだけど、こうやってまとめようともせずに徒然に書いてみたら、本当にスッキリ!(笑)
もう一回、自分の理想を明確にしながら、今できることを全力でやっていこう、そう思えた雨の1日であった《完》


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