自己紹介

みなさん、初めまして。
プロサー10期の「ぼう」です。
プロサーにいながら、あまり交流に参加していないので、良い機会だと思い、自分の事も含めて色々書いていきたいと思います。

自己紹介

プロサーの中では最年長にあたるんじゃないかと密かに思っています。直接年齢は書けませんが16進数表記で0x35歳と書けば、コンピュータ好きの皆さんならすぐに分かると思います。
何でそんな年齢でプロサーに入ったかというと、不完全燃焼な気分を一掃したかったからです。子供の頃からパソコンやプログラミングに触れつつも、どこか常に不完全で不十分な感覚を持ち続けていました。そんな感じの自分にとって「このカリキュラムでダメなら、もうどこでもだめだと思います」というむらっしゅさんのツイートがどんぴしゃりと来ました。

プロサーの入会経緯

当時twitterを見ていると「副業」「プログラミング」というのが目に付くようになり、「副業でお金を稼ぎたいなぁ」という漠然とした思いと、子供の頃からプログラミングに憧れていた自分は「プログラミングをマスターしたい」という瞭然とした思いが重なり、「俺はプログラミングで稼ぐんだぁ」という情熱が高まっていたタイミングで、twitter でプロサーの事を知りました。当時、プロゲートなどでHTMLやCSSを学んだりしていましたが、何故か無性にプロサーに入りたくなり、2020年1月1日にむらっしゅさんにDMしました。すると近日募集するから少々待ってくださいという返事をもらい、今か今かと待っていました。その後プロサー10期の募集が始まり、2020年1月14日再度むらっしゅさんにDMし、2020年1月22日に入会しました。当時は本当にプロサーの事をよく知らずに、勢いだけで参加した感じです。なので入るまでHTML+CSSを学べるのだと思っていました(笑)。そんな感じで2020年2月1日に10期キックオフが行われ、プロサーライフが開始しました。とは言え、自分が課題1を合格したのは2021年8月9日です。これは自分がただ単に時間がかかっただけで、もちろん早い人は2020年2月3日には合格しているので安心してください。

自分とプログラミング

なぜこんなにプログラミングに興味を持っていたかというと、話は今から40年ほど前に遡ります。
ただプログラミングに関しては、色々手を出しながらも、全て未達成という感じで、プログラミングをずっとマスターしたいという思いが40年間続いてのプロサー入会でした。

小学生時代

1980年の小学六年生の時に、自分はそんなに仲良くは無かったんだけど、ある同学年の子の家にみんなで遊びに行きました。するとその子が「ラジオの製作」という雑誌を見ながら、基板にコンデンサーなどの部品を半田付けして、電池不要のラジオを作ったりしていました。小さい頃から、捨てられたブラン管テレビの中身や、時計やラジオの分解など、電気製品の中身に興味を持っていた自分は、その子の作った(正常には動かなかったけど)電子工作のラジオを見て、こんな世界もあるんだと一種の衝撃を受けました。そこから自分でも「ラジオの製作」や、その後「初歩のラジオ」などの雑誌を購入するようになりました。そこには色んな電子工作の紹介やアマチュア無線などの紹介がありました。ただお金がなかったので、電子工作用の基板や部品や半田ごてなどは買えませんでした。そうこうしている内に「初歩のラジオ」(初ラ)にマイコン(パソコン)の話題が出るようになりました。当時はまだマイコンもパソコンも同じ意味で使われていて、統一されていなかった時期です。最初はチンプンカンプンでしたが、その後毎月パソコンの話題が掲載されるようになり、Basicで書かれたプログラムとその解説が載るようになりました。主に簡単なゲームプログラムだったと思います。
ゲームと言えば、自分が小学生の頃にはブロック崩しゲームが出現し、スペースインベーダーが株式会社タイトーから1978年に発売されました。漫画「ゲームセンターあらし」が1979年からコロコロコミックに連載開始され、ゲームブームの時期もあり、自分はどんどんコンピュータプログラム(主にゲーム制作)というものに魅了されていきました。

中学生時代

毎月「初ラ」に掲載されているBasicプログラムや「ラジオの製作」の別冊付録として「マイコンBASICマガジン」があり、その解説を読んでいたことで、中学2年頃になると「初ラ」に記載されているBasicのプログラムに何が書かれているか、動きがどうなるかが分かるようになりました。そうすると自分でも実際にプログラムを書きたくなり、なんと親がパソコン(SHARP MZ-1200)を買ってくれました。当時で140,000円ぐらいしたので、今思えば、相当無理したんだろうという事が分かります。ちょうどその頃「マイコンBASICマガジン」が「ラジオの製作」から独立して創刊されるようになりました。「マイコンBASICマガジン」というのは読者が考えたプログラミングを雑誌社に送り、そこで選抜されたプログラミングが掲載されます。自分はそこに掲載されているプログラムを、自分のパソコンに入力して遊んでいました。いつかは自分もオリジナルのプログラムを作って、応募するぞと誓った思いが、いまだに生きててプロサー入会の動機になったという感じです。実際、自分もBASICで簡単なもぐら叩きゲームを作りましたが、改良しようと思っている間に、時間が過ぎ、自分の持っていた機種のプログラムは雑誌に載らなくなりました。実際、自分がMZ-1200を買った年の後半、同じ価格帯ではるかに性能の良いパソコンがFUJITSUから売り出されました(FM-7)。またSHARPからX1が発売され、後半「マイコンBASICマガジン」にはFUJITSUのFM-7、NECのPC-8001やPC-6001、SHARPのX1などがメインとなっていった気がします。

高校時代

そういう事もあり、高校からはプログラミングに興味はありつつも、パソコンに触ることが少なくなりました。
一時期マシン語を入力すると、物凄くスピードの速いプログラムがかけるため、マシン語の本を購入しましたが、やはり挫折しました。これは本当に自分でCD 12 88 C9 00 81 など16進数の記号を使ってプログラミングしていくというものです。確かZ80命令だと、CDはBASICで言うところのGOSUB,C9はRETURNだったと思います。自分で作るのは諦め、マシン語で書かれたプラグラムの本を購入し、パソコンに打ち込んでゲームをしました。しかし入力する量は半端なかったです。一週間ぐらいかけてひたすら16進数の記号を入力し、実行したらエラー。また本の一文字一文字とモニターを見ながら間違い探しです。MZ-1200にはグラフィック機能はありませんので、キャラクターの動きも8バイトの文字単位です。操作もキーボードで行う不便なもので、徐々に魅力をそがれ、その内、ファミコンなどが登場し、MZ-1200は完全に押し入れの中に入りました。当時親の離婚もあり、金欠な状態だったため、ファミコン類のゲームマシンは買ったことがありません。たまに友達の家で遊ぶくらいでした。

浪人時代

大学受験では失敗をし、予備校の全額免除試験を受けましたが、これも落ちて半額免除しかならず、親に頼んで、予備校費用を出してもらい一浪しました。大学は無事に受かりましたが、入学金と授業料が無く、親の知り合いに借金をして払い込み、無事に大学生活がスタートです。とりあえずバイトをしつつ、育英資金を借りつつ、授業料免除の申請をしつつ、なんとか大学と大学院まで進むことができました。

大学時代

そんな感じでパソコンに触れるのは大学4回生まで飛びます。自分のパソコンを所有したのは社会人になってからになります。
大学四回生となり、研究室に配属して、パソコンに再度触れ始めます。6年ぶりぐらいの間にパソコンの世界は大きく変わっていました。パソコンは起動したらBASICしか使えなかった状態から、MS-DOSというOSが常駐するようになっていました。プログラミング言語もBASICではなくFORTRANやC言語が主流となっていました。パソコン本体もPC-9801が主流であり、もう浦島太郎状態です。当時は文書作成は一太郎、お絵かきは花子、表計算はロータスというのが主流でした。記憶媒体もカセットテープからフロッピーディスクになっており、ペラペラの5インチから、頑丈でコンパクトな3.5インチへ世代が移る時期でした。データ整理やレポート作成でパソコンを使っていました。ちなみにグラフは活図(カット)というソフトでした。その当時は第2次AIブームの終わり頃で、造船の伝統的な職人技にエキスパートシステムを適用するというのが自分の研究テーマでした。Lispという訳の分からない言語を学んだのはその時です。機械学習やディープラーニングなんかよりも、もっともっと前の世代であり、人工知能と言いながらプログラム自体は、入力された条件によって、あらかじめ決められた施工ルールが選ばれるような感じで、Lispを使っただけの、人工知能のプログラミングとは言えない、ただ単なるif-thenでパターンに当てはめるようなものでした。

大学院時代

その後、修士に進んだ後、研究室にはマッキントッシュとUNIXも導入されました。UNIXは有限要素法のプログラムを走らせるためのものです。ここからマッキントッシュのパソコンが欲しいと思い始め、手にするのは12年後です。
UNIXで有限要素法に使うデータを作るのにエディターを使います。当時はviとemacsという二種類ありました。自分は自分の先輩がviを使用していたためviを覚えましたが、後から見たemacsの方が二画面使えたりして相当便利そうでした。今はvimも二画面使えるので相当便利だと思います。後は解析結果のデータから必要なデータを抽出するために、sed & awkも学びました。
ちなみに自分の所属は造船学科です。翌年からは船舶海洋工学科という少しかっこいい名前になりました。
話はそれますが、当時の自分は化学が世界を変えると思っていました。ちょうどバイオテクノロジーが流行っており、その延長で新しい化学変化が世の中の不便や貧困を解消できるのではと。だから受験する大学は化学を選びました。ただ、ここの大学は第三志望まで学科を選ぶ事ができ、かつ直前になって受かりやすそうな造船学科を第一志望に変えました。

社会人時代(船舶部門)

会社に入ってしばらくたってDOS/Vパソコンというのが徐々に広がり始め、PC-9801シリーズを駆逐していきます。そしてWindows95が発売され、自分の世の中の流れとともに1996年TOSHIBA BREZZA 5166MAおWindows95パソコンを購入しました。Pentium166MHz、メモリ16MB、HDD1.2GBで当時としては166MHzは速い方でした。
Googleが非公開の会社として設立されたのは1998年、Google日本語版が登場したのは2000年ですので、それよりも前のネットの世界です。検索エンジン(昔はポータルサイトと言っていました)はYahoo! JAPANが主流だったと思います。他にはexcite, infoseek, gooなどがポータルサイトを競っていました。その後、Google検索が始まると、徐々に検索と言えばGoogleと言われるようになりました。
徐々に自分も自分のホームページを持ちたくなり、HTMLを勉強して、契約していたプロバイダにホームページを開設します。ただ本当にHTMLで作った静的なページのみで、CGIやActiveXなど使っていたページは憧れでした。そしてほどなくJavaが現れます。JavaのスローガンはWrite once, run anywhere (WORA)「一度(プログラムを)書けば、どこでも実行できる」という事で、またwebページにも使えるという事で、将来性を感じ取り、さっそく本「独習Java」を買い、勉強しました。もともとBASICでプログラミングの知識が止まっていたので、Javaは僕にとって初めての概念が多かったです。変数の型宣言から始まり、参照、ストリームや、クラス、オブジェクト、などオブジェクト指向の概念。その後、言語の基本はc言語と思い、c言語を学びました。もちろん学んだと言っても本を読んだだけでプログラムは作れません。その後、c++、D言語、Ruby、Python、とつまみ食いをしながら見てきましたが、何かプログラムが出来るようにはなりませんでした。そして1999年頃にLinuxブームが起こります。

社会人時代(精密機械部門)

2000年に造船から違う部署に異動し、その異動先のパソコンがIBMのデスクトップだったため、パーテーションを区切ってLaser Linuxをインストールし、Dual Bootにしていました。今の会社のセキュリティでは絶対にありえない事ですが。たまにLinuxをブートさせていじっていましたが、特に目的もなかったため、立ち上げて何するでもなく、Linuxの使い道が分からないまま終わりました。それから仕事でExcelをよく使うようになり、スケジュールもExcelでの作成になっていました。毎回、新しい需要が出るたびにExcelのスケジュールを削除したりして更新するのが面倒になり、ネットでExcelVBAの記事を検索しながら、半自動みたいな感じでExcelVBAを使って、楽になるようにしてきました。2006年には「30日でできる!OS自作入門」という本を見つけました、いつかWindowsマシンを買ったら作ってみようと思いました。
2003年にとうとうiBook G4を購入することで、念願のAppleのパソコンを手にしました。なので、この「30日でできる!OS自作入門」はMacパソコンには当てはまらないという感じです。
その後iPhoneがAndroidが出て、スマホアプリの開発に興味がわくも、iBook G4では何も出来ません。

社会人時代(フィリピン駐在)

そして2017年フィリピンに行き、2019年にSurface Laptopを購入しました。こうして振り返ってみると、いつもやりたいタイミングで出来ていないことに気づきます。

プロサー入会へ

2020年のプロサー入会は能動的なアクションです。今まで何をやってもプログラミングをマスターできなかった自分に対し、むらっしゅさんがツイートしていた「このカリキュラムでダメなら、もうどこでもだめだと思います」という言葉が自分にささり、この人にかけてみようと思った次第です。
そして2020年2月1日にプロサー10期のキックオフミーティングが開催され、スタートしました。

フィリピンロックダウンへ

最初、少し遅めのペースで運営からのお知らせを読み進んでいきましたが、物覚えが悪いため、大事なところをEvernoteに纏めることにしました。
そして3月12日にフィリピン大統領より3月15日0:00~4月14日23:59までマニラ首都圏を隔離するというアナウンスが流れました。当初ロックダウンと呼んでいましたが、ただ事ではない雰囲気です。マニラ首都圏から会社のある工業団地に通勤できるのかも分からず、その夜にAgodaで工業団地内のホテルを予約しました。最大30日間です。工業団地内には2つホテルがあるのですが、1つはすでに満杯。もう1つはかろうじて予約が取れました。翌朝、同じ日本人の部下がホテルを取ろうとしても、もう予約ができず、ギリギリのタイミングの予約でした。そこから1ヶ月間のホテル生活が続きますが、ホテルならご飯に困らないだろうと安易に考えていたら、ホテルの新規予約は禁止となり、朝食がレストランで取れたのは初日だけど、次に日からはロビーにパンとコーヒーとシリアルとフルーツが置いてあり、各自が取っていくというスタイルに変わってしまいました。朝だけでもまとまな食事が取れると思った考えは、すぐに消えました。外出禁止令はすぐにマニラ首都圏だけでなくルソン島全域に広がり、晩御飯を期待していた日本レストランも早々と閉店となり、ホテル内では調理もできないため、かなり苦労しました。幸い、AVPからの差し入れや、会社の昼飯とメリエンダを持って帰ることでなんとか食いつなぎましたが、やはり二週間ぐらい経つと、体調も悪化していくのが分かり、通勤が何とかできるようになってきたので、三週間後、自分の居住地に戻りました。モールもスーパーマーケットやドラッグストアなど、エッセンシャルビジネスは時間に制約がありますが、オープンしています。毎週休日はそこに食料を買い出しに行き、完全自炊生活に入りしました。自炊はレストランがテイクアウトや、GrabやFoodpandaのデリバリーを活用するまでつづきます。その後、工場のオペレーションも最低出勤率の制限が徐々に緩和され、5月16日に移動・外出制限が4段階中、上から3番目に緩和されるとともに、出勤率の制限が撤廃されました。しかし出勤率は徐々に回復していくも、近隣の交通問題の影響が残り、90%を超えるようになったのは6月9日までかかります。

プロサー再び

2020年6月11日から学習時間の報告をするようになりましたが、6月25日で止まってしまいました。
そこから1年ちょっとのブランクが空き、2021年7月11日より再開します。結局課題1を提出できたのが、2021年8月9日となりました。しかし今は途中で諦めずに続けて良かったと思っています。やはりプログラミングは楽しい、わくわくします。

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