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シン・エヴァンゲリオンで第3村は結局どうなったのか?

考察ではなく解釈を書いておきたい

難解、と言うより「答えを示さない」、あるいは答えを描くことを放棄しているエヴァは初期のころから「考察」が付いて回わり、それを考えたり、誰かの考察を読むのが一つの楽しみであった。
だが、「最後のエヴァ」と銘打ったシン・エヴァンゲリオン劇場版:||(以下、シンエヴァ)は、今までのエヴァとは異なり、ある程度明確な答えを提供して幕を閉じたと感じた。そしてその「答え」に納得し、感動して劇場を後にした。
しかしながら、ネットでいろいろな「感想」、あるいは「考察」を見ていると私が「明確な答え」と感じた部分でもいろいろな解釈があることがわかり、少し驚いた。そこで、自分と同じ解釈を見つけて「俺もそう思ったよ」とTweetしようとしたのだが、どうもしっくりくる解釈が見つからなかった。
だから、ここに私なりのシンエヴァの解釈を書き残しておくことにした。
これは私なりの解釈であり、考察ではない。解釈には、あるいは不正解はあるのかもしれないが、正解はない。なので、特に反論も議論も求めていない。ただ、「私はこう解釈した」というだけの記事である。

第3村は結局最後どうなったのか?

結局、第3村とその住人は物語の最後でどうなってしまったのだろうか?
私が他の方の感想を読んでいて、「あれ?」と思ったのはこの部分だ。
私はラストシーンで、明確に「第3村は消滅した」ように描かれているように見え、そこに解釈の余地はないと思っていた。しかしながら、そうではない解釈が多数あり、もしかしたら僕の解釈はマイナーに属するかもしれないと感じた。
突き詰めるとこのnoteで書きたいのは、私がなぜ第3村は消滅していると考えたのかということだけである。

ラストシーンの宇部新川駅は何なのか

いろいろな感想を読んでいると宇部新川駅のシーンにいろいろな解釈がありそうで、それによって第3村の結末の解釈が変わっていくようだ。
私のラストシーンの解釈はこうだ。
「あの世界は神に等しい力を持ったシンジが再構築した世界で、時系列としては浜辺でマリがシンジを助け出したすぐ直後である」
と、私は考えている
いわゆる「世界5分前仮説」だ。
あの世界は、突如としてこの世に現れたもので、あれからうん十年、うん千年といったものではない。理由はシンジの首にDSSチョーカーが付けられていからである。あれが古い世界と新しい世界が地続きであることの証に見えていた。
この部分は、解釈の余地がなく明確に映画で描かれていると、(勝手に)解釈しており、ここに解釈の余地があるのがとても意外だったのだ。

エヴァの世界に「平行世界」なんてものはない

ネットの感想を読んでいると、あの世界は平行世界であるという解釈をよくみる。
私としては、どうもこの解釈がしっくりこない。なぜなら、エヴァの中で「平行世界がある」といった描写は一切なく、あくまでも繰り返される一つのシーケンシャルな世界が描かれているように思えているからだ。
最後の最後に、突如として「平行世界」という概念が表れるのはどうも釈然としない。
だから、あの世界は平行世界ではなく、次の世界だと思っていた。シンジが望んだ「エヴァも使徒もいない世界」。この世界ではシンジは最早神になることができる存在ではなく、ただの人である。それは、世界はもう二度とやり直すことができないことを示している。幾度となく再構築が繰り返された末の最後の世界があのラストシーンなのである。
それは我々の住む世界のことであり、我々の世界には「第3村」は存在していないのだ。

ヴィレの活動は無駄に終わったのか?

では、あの世界が再構築された次の世界であり、第3村は消滅したとしたとして、結果的にヴィレの活動は全て無駄に終わったことになるのだろうか?
ミサトが命を懸け守り抜こうとした世界が無くなってしまっては、すべての物語の意味がなくなるのではないか?
そんなところから、「第3村は残ったまま新たに世界が構築された」という平行世界の解釈も生まれるのだろう。
この部分は映画を見た人に解釈を委ね誰ている部分で、どうとでも解釈ができ、もしかしたら製作者も答えを持っていない(とてもエヴァらしい)残された問題なのだと思っていた。
「ヴィレはムダだった」という解釈もあるだろうし、新しい世界の片隅に第3村が(少し形を変えて)残っている解釈もあるだろう。

なお、私の解釈はこうだ。
第3村で生き残った人々やヴィレのメンバーは、全て新しい世界に再構築されている。
ただし、そこにはミサトはいない。なぜなら、エヴァの中では、たびたび人々はLCLやコアに溶けることはあっても蘇ることはないからだ。シン・エヴァの中でゼーレのモノリスの電源が落とされるシーンがあった。彼らは形を変え生き続けていた存在だが命には限りがあり死は訪れると描かれていた。知恵の実のみを食べたを人にとって死は不可逆的に訪れるものであるはずだ。
物語の最後の方、ヴィレのメンバーはこの事実を知っていたのではないかと考えている。つまりコア化した世界を元に戻すことはできないが、再構築された世界で生きながらえることはできる。だから覚悟を持ってミサトを送り出し、シンジに全てを委ねたのである。

では、ヴィレや第3村(あるいは第1や第2村も)の生き残った人々が新しい世界に再構築されたとして、以前の世界の記憶はあるのだろうか?
それはこの世界を作ったシンジ次第だ。もしかしたら、彼らもシンジやマリと同じように、記憶を持ったまま新しい世界に再構築されているかもしれない。

結局エヴァはどんな物語だったのか?

最後に結局はエヴァとはどのような物語だったのかを書き記しておく。
私は、シン・エヴァをもって、エヴァはありふれた神話になったのだと考えている。

洋の東西を問わず、ポリネシアや中南米の神話を含めて、「神話」とは世界の説明である。
例えば、日本の神話には、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と伊弉冉尊(いざなみのみこと)が矛で海をかき回すと、矛先から雫が落ちて島ができたとある。これは「なぜ淡路島が存在しているのか」の説明として機能している。
旧約聖書の「バベルの塔」は、世界に複数の言語がある理由の説明であり、ハワイに伝わるラウカイエイエの物語はオヒアの木が赤い理由の説明である。
これらの神話に、理屈もないし、教訓も無い。なんなら物語すら無いともいえる。ただ「説明」があるだけなのだ。もちろん突き詰めれば説明にすらなっていない。淡路島の説明があったとしても、なぜ鉾から落ちた水滴が島になるのかの説明はない。それでも人はちょっとした説明があれば安心するのだ。
これは現代だって変わらない。なぜ、リンゴが木から落ちるのか?
これに対して我々は「万有引力」があるからと答える。そもそも万有引力とは何なのか、なぜ万有引力があるとリンゴは落ちるのか、その力はどのように伝わるのか、そんなことを知らなくても「ニュートンがそう言ったから」で納得できるのだ。
つまり、神話とは科学がなかった時代の科学であったとも言えるし、科学は現在の神話だとも言えるのである。
そして、エヴァはこれらの神話をまねた物語なのだと思える。ちょっと神話にしては壮大で、長すぎるけど。

では、エヴァはこの世の何を説明する神話なのだろうか?
それは「人はなぜ群体生物なのか」に尽きる。
この答えは今もって科学では説明できていないし、世界中の古来からの神話にも答えは書き記されていない(これは当然だ。そもそも人が群体であるという概念は、遺伝子という科学があって初めて生まれる概念だからだ)。
エヴァはこの答えを神話の形式を借りて描いたのだ。

人はなぜ群体であり、生殖によって進化する生き物なのか?

その答えは「神であるシンジがそう望んだから」である。なぜ、シンジがそう望んだかが描かれた物語がエヴァなのである。
これもまた明確に描かれていて解釈の余地を許さない部分だと、私は考えていた。

繰り返しになるが、私の解釈を誰かに押し付ける気はない。
解釈が多数あることは映画がよくできている証でもあるからだ。
ただ、「俺もそう思った」という人が、もし他にもいるならば、ちょっとうれしい。いつだって、同士は多いに越したことはないのだから。

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