知行合一

いくら、知っていても、勉強しても、実行・実現できなければ意味がない。

本棚に本はどんどん溜まっていき、SNSで投稿や記事を読んでは、消えていく。気になる文章や情報はメモしたり、本のページに折り目をつけたりしているけど、自分の中に澱のように溜まった言葉や情報はどこにいくのか?果たしてそれが何になるのだろうか?なんの意味があるのか?

いままで何かを発信しようと思いながら、なかなか実行できなかったが、コロナで在宅勤務が続き、何か書いてみようという気持ちになった。全然レベルも内容も違うが、村上春樹が神宮球場の外野スタンドで寝転んで野球を見ているときに「小説を書いてみよう」という気持ちになったような感じだと自分では理解している(全然違うかもしれないけど)。

自分が吸収したことを自分なりに咀嚼してそれを行動に移し、そして社会を少しでも良い方向に変えていきたい、少しそう思うようになった。果たして、そんなだいそれたことができるかどうかはわからないが、そう思った。

そんなことを思いながら過ごしているうちに、「知行合一」という言葉が頭の中で気になりだした。この言葉はよく知られているが、自分なりによく咀嚼してみたいと思った。以前大学院の課題図書で読んだことのある「真説「陽明学」入門 林田明大著 」という本をもう一度読み直して、自分なりに咀嚼し、そして、自分の行動にどう反映させていくかをここに書いていきたい。

知行合一とは?

「真説「陽明学」入門」によると「「知ることは行うことの始めであり、行うことは知ることの完成です。聖人の学問にあって修行はただ一つ、知ることと行うことを別個のものとみなさないことです。」とはいえ、「言行一致」を説いているわけではない。朱子学では「先知後行」説を主張していた。行動が理にふさわしいものになるためにも、まずは理を知らないといけないという考え方だ。私たちはどちらかといえばこの朱子学の考え方のほうに馴染んでいる。陽明にいわせれば、知と行をわける考え方や、そうしたものの見方に問題があるというのだ。分けて考えるから、その段階ですでに知は主知的主義的になってしまい、いつまでも知識を追い求め、行動を起こすことを恐れるようになってしまう。また、分析的な、言い換えれば、物事を細かく分解し、区別していくような考え方が、さらに物事を抽象的で無味乾燥なものにし、生き生きとした生命力を奪ってしまっていると主張したのだ。」

ビジネスではよくPDCAということが言われるが、これはプランを練り、実行に移し、その結果をチェックし、そしてさらにアクションにつなげていく。これがいわゆる多くの企業でやられていることだと思う。これはどちらかというと上記の朱子学の「先知後行」に近いような気がする。

「陽明にいわせれば、知と行をわける考え方や、そうしたものの見方に問題があるというのだ。分けて考えるから、その段階ですでに知は主知主義的になってしまい、いつまでも知識を追い求め、行動を起こすことを恐れるようになってしまう」

まさに会社のどこかで聞いたようなことが言葉だ。情報集めてプランばかりたてていて、会議ばかりやって、実行に移せないなんてことはよく聞く話だ。

では、陽明学的に言えば、どうすれば良いのか?プランなんか立てずにまずはやってみろ、ということなのか。

「知ることは行うことの始めであり、行うことは知ることの完成です。」

計画をたてることは良いが、それはあくまで始めであり、これを実行に移すことで完成するという意味と解釈できる。裏を返せば計画をたてて、実行に移せないということは、知ることが完成してないということだ。計画をたて、やってみて、うまくいったりいかなかったりして、新しい事実に気づき、計画を修正して、更に行動に移していく。でも、これってつまりPDCAのことだよね。陽明学的には、PDと分けないということなのかな?PDCA全体が知行合一ということなのかな?

なるほど、その通りだと思うし、なんとなくわかったように気がする(ほんとうはもっと深いのだともうけど、先に進める)

事上磨錬とは?

「事上磨錬とは、実際の事にあたって心を錬磨することである。「人間はやたらに事のないのを求めるべきではなく、須らくできごとのうえにおいて自己を磨くべきなのです。そうすれば、自然に心は確立して、平穏無事のときにも安定するし、繁忙多端なときにも安定するに違いないのです。」」

これは比較的わかりやすい。自分の例でいえば、日々会社でいろんなことが起きて、いろんなことを言う人がいて、、という中でも心が安定していられるように錬磨するということだろう。ちょっとしたことでカッとなったりしてしまうけど、実際の事にあたって心を錬磨することで、常に安定していられるような境地になるのではないだろうか?

「致良知」とは?

「良知を致す。良知を発揮するように日々努力し、工夫する。良知とは人が生まれながらにして持っている神的な道徳的な知能のことであり、心の本体のことである。」

これだけだと抽象的で非常にわかりずらい。下記の解説がわかりやすかった。

「現代人は、心(魂)の機能や力がとても衰えている。病んでいるといっても過言ではないだろう。信じるという言葉がよくつかわれる。例えばこんな使われ方をしている。「私は神の存在を信じている」「私は仏教を信じている」・・略・・・厳密にいえば、こういう場合は「信じたい」というべきだろう。なぜなら、もし、神の存在を信じているのであれば、その人は神の教えを実践し、まるで神のごとくに生きていかなければならないからだ。略・・多くの人々は、信じたくても信じきれないで生きている、というのが現実だ。本当に信じて生きている人が果たして何人いるだろうか。つまりは多くの人は、心の力を、心にある「良知」の存在を信じきれないのだ。心の機能としての信じる力が弱いからだ。しかし、陽明の教えを実践していかれるなら、きっと心の力を回復できるのである。世界的なチェリストのパブロカルザスは次のように言っている。「・・人はみな自分の内部に根本的な道理の観念を持っています。その観念の告げることに耳を傾け、その通りに行動すれば、その人は世界が一番必要とすることを大きく果たしているのです。それは別に込みいったことではないが、勇気がいります。人が自分自身の善性に耳を傾け、それに従って行動するのは勇気がいります。われわれは自分自身になりきる気があるかどうか。これが大切な問題です。カルザスの「根本的な道理の観念」とはまるで「良知」そのものではないか。」

確かに自分が心のそこから思っていることを人に言うのは結構勇気がいる。学校や会社でそれを言ったりしたら潰されたり無視されたりされる可能性がある。夫婦間ですら、言わないでいることもある。だから、多くの人は本音と建て前で生きるようになる。ただ、これを続けることで、心の声が小さくなり、良知の存在の存在を信じることができなくなってしまう。これが多分今の自分の状態だし、多くの人もそうなのかもしれない。

ではどうすれば良いか?自分の思っていることを会社でも学校でも、100%主張すればよいのか?、、おそらくそれは自分にはできない。自分にできることはこの場で自分の良知と対話をして、発信し、良知を育成していく。読んでくださった方からのフィードバックがあれば対話をしていく。そして、社会(会社他)でここで育成した良知を使って行動していく、、これが今自分にできることだと思う。

心即理とは?

理とは道理のこと、ものごとの正しいすじ道のこと、条理のことである。それは根拠であると同時に規範でもある。宇宙をあるべきようにあらしめている原理、宇宙万物の生成と秩序と調和の根源をなすもの、と言い換えることもできる。陽明学では、心即理を主張する。つまり、心は万事万物の理であり、心と万事万物は一体であると。心の中に宇宙の根源的な心理が含まれていて、心のうちと外に対立はないと、主張しているのである。

これは一見危険な思想のように思える。独りよがりにならないか?危険思想の持主の心は正しいのか?

「心の絶対性や主体性の確立と自由を強調するあまりに利己主義に陥る可能性がある。そのひとりよがりになる危険性を、仁や惻隠の情・・・によって阻止することができるのだ。‥略・・心と理に区別を設けることは、人間と自然、われと汝の間に区別を設けることと同じことである。私欲が生じると、心と理に区別が生じ、人間は自然に対立し、他人に敵対する関係となってしまう。私欲は心の平安をかき乱し、自己分裂の危機をもたらし、判断力を狂わせていく。だから、陽明は私欲を取り除くことの大切さを主張するのだ。・・・」

正直私には私欲と心が分けられるのか?がいまいちわからない。心の一部に私欲が入っているのではないか?だから、自分の心そのままに行動することをためらってしまう。まだ、自分は陽明学を理解できてないと思う。ただ、自分自身の善性に耳を傾け、それに従って行動する(致良知)。そして、知ることは行うことの始めであるという認識のもとに行動していくことを胸に刻んで生きていきたい。


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