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「データ共同利用権」がやってくる

デジタル庁創設に絡んで議論されている新しい権利概念「データ共同利用権」は個人情報の無断収集を良しとしており「社会全体の価値の最大化は基本的人権より重要である」という思想に基づいている。もちろん基本的人権の方が重要であるのでデータ共同利用権という権利概念は棄却すべきである

SFの世界が近づいてきた

例えばの話をしよう。近未来、「あたまのいいひとたち」が全国民を常時監視することと引き換えに、社会福祉が充実し、国民一人ひとりの生活事情に個別最適化されたキメ細やかな社会福祉を無料で受けられるとしよう、病気も初期段階で治療を受けられるとしよう、申し込み手続きすら不要であるとしよう。皆さんはそのような世界を受け入れられるだろうか?

データ共同利用権」コンセプトが想定しているのはそのような社会である。最初のうちは医療分野などで限定的にプライバシーが侵害されるであろうが、最終的には社会全体の価値を最大化するためにあらゆる局面でプライバシーが侵害されるようになる。「データ共同利用権」コンセプトはその根本に「社会全体の価値の最大化は基本的人権より重要である」という思想があるからである。

プライバシーと価値最大化

デジタル庁とワンセットで語られる言葉「DX(デジタル改革)」とは、最新のデジタル技術によって社会体制や企業組織を改革し価値の最大化を図る取り組みのことである。デジタル技術はたまたま21世紀の現代において最適な手段であったから採用されたというだけで、DXの目的はあくまでも「価値の最大化」である。

ではどうして価値最大化のためにプライバシーを侵害しなければならないのか。顧客(国民)一人ひとりの生活事情に個別最適化されたサービスを目指す以外に価値最大化の余地がないからである。将来偶然生まれる画期的大発明に過剰な期待はできない。顧客(国民)のプライバシーに踏み込まなければ価値の最大化は実現できない。

「開発」から「共創」へ

ここまで読んで「プライバシーを侵害せずともきちんと目的を説明して任意提供して貰えばよいのでは?」とお考えの方もおられるであろう。もちろん先見の明ある企業は皆そうしている。

最近よく耳にする言葉「共創」とは、「顧客の協力を得て、顧客の内心に潜む本質的要求を発見し、本質的要求を満たす製品やサービスを開発する活動」のことを指す。共に創るとはいうものの顧客は素人であり明らかに開発業務などできない。「共創」における顧客側の仕事とは、ようするに顧客が己の生活事情を自発的にサービス提供側に明かすことなのである。

「共創」から「強制」へ

しかしデジタル庁設立を目指す国家公務員と有識者はそうは考えていないようだ。彼らは「プライバシーを侵害する権限を法律で国家に与えればよいのでは?」と考えている。ゆえに「データ共同利用権」という権利概念が生まれた。

政府のワーキンググループで配布された資料には「21世紀の基本的人権 “データ共同利用権” の確立」などという美辞麗句が飾られているが、これは詭弁である。データすなわち無断収集されたあなたの個人情報を利用するのは国家および認可を受けた企業である。「あなたが万が一急病で倒れたときのために」あなたの病歴情報を国家が勝手に読む権限も想定している。

SFの世界ではどうなったか

データ共同利用権」の想定する世界はまるでSFのような世界だが、これまでに公開されたSF映画では、プライバシー侵害に基づく理想社会を肯定したものは存在しなかったように思う。

映画「ダークナイト」(2008, クリストファー・ノーラン監督)では、主人公バットマンが悪漢ジョーカーを捕まえるために天才科学者の封印した市民監視装置を完成させるが、天才科学者はジョーカー発見後にその装置を破壊した。

映画「マイノリティ・リポート」(2002, スティーヴン・スピルバーグ監督)では、予知能力者による通報によって犯罪未遂者を逮捕し有罪とする世界が描かれたが、予知を欺いて悪用する手段のあることが発覚し、予知能力通報制度は廃止された。

映画「ガタカ」(1997, アンドリュー・ニコル監督)では、遺伝子情報によって一意に適性不適正が決定され職業選択の自由のない世界が描かれたが、主人公の不適正者は心ある適性者達に守られ宇宙飛行士になる夢を叶えることができた。

当たり前の話であるが、しょせん行政レベルで考える価値の最大化よりも基本的人権の方が重要なのである。データ共同利用権などとという権利概念は棄却すべきであると提案して本稿を終える。

(※扉絵は首相官邸ウェブサイトより引用)

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