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冬めきて(12)

 もう、ことばで気遅れするような日常ではなくなっていた。東京の言葉をあやつれるようになったからではない。訥弁とつべんの自分に慣れてしまったからだろう。
 上京して1年たち、大学でも2年生になったのだと思うと少しばかり誇らしく、自信もかなり気持ちの支えになっていてもいいはずである。だが、その2年生を無事にえられるかどうかの瀬戸際にあったころだった。
 その日、次の一般教養科目の憲法の授業で、ノートを取るふりをしながら、持ちあわせていたレポート用紙に宇佐美へ手紙を書いた。授業が終わり、大きな教室から出たところで、あの後輩が立っていた。彼も受講していたという。
「ちょうどいいや。わるいけど、宇佐美さんにこれを渡してくれないか。おれ、ビケンの部屋へいきたくないんだ」
 宇佐美への手紙代わりの紙片を彼に渡した。何を書いたのかはおぼえていない。後輩の男や、ビケンのほかのメンバーの目に触れてもかまわないような内容を短く書いていたはずだった。きっと、絵など描いている余裕はないから、ビケンから退会すると書いたのだろう。それに現代美術といわれてもまるでわからなかった。
「おれ、去年、この単位を落としてるんだ。アルバイトで出席日数が足りないらしくてね。今年はなんとしてでも取りたいんだ」
 いいわけのように、1年生の後輩にいった。
 法学部の学生には必須だったこの講座の単位を去年は意外にも落とした。さこいまで、同じ教師が、同じ講義をしていた。1年生のときの後期試験では、「死刑制度について簡潔に論考せよ」という設問に対し、「死刑は廃止すべきである。人が人を殺すべきではない」といった趣旨の、教師の考え方にそった答案を書いた。
 それなのに単位を落としたのは、出席日数が足りていなかったからとしか思えない。2年生になり、毎回配られる出席票に学籍番号と名前を書くたびに、今年はなんとしても出席日数を満たし、単位を取らなくてはならないとの緊張を新たにしていた。出席日数さえ満たしていれば、試験の課題とその答えはわかっている。
 後輩は、手紙代わりのレポート用紙の紙片をホッとしたように受け取り、ていねいに頭を下げて去っていった。きっと、「篠塚から、ちゃんと返事をもらってきてくれ」との3年生の幹事である宇佐美からのいいつけが、まがりなりにも果たせたのだろう。彼と、また、えてよかった。
 宇佐美に呼び出された用件は見当がついていた。まだ、冬の陽気が濃かった春休み、新年度の履修届に学部事務所へ出かけた帰りに図書館のわきの道でたまたま彼に会った。
 すれちがい、「おい、篠塚、篠塚だろ」と背後から名前を呼ばれて振り返った。自分を呼び止めたのが宇佐美とはすぐにはわからなかった。
 東京へ出てから、いかにも都会人らしい服装だった宇佐美が、その日、よれよの作業服を着て、首に汚れたタオルを巻いていた。あの時代らしさだったともいえる。肩まで伸びた長髪とひげ面も当時の若者のファッションとしては珍しくない。
 だが、表情はまるで別人だった。貴公子然としていた一年前までの宇佐美ではない。彼のこの1年間が想像できた。頰の肉が落ちている分、いかにも寒そうなのがひときわ印象的だった。
 宇佐美のにらむような落ち窪んだ目を正視できず、下を向いた。
「おまえ、研究会にはぜんぜん顔を出していないそうじゃないか。新人歓迎コンパにもきてなかったし……どうしたんだ?」
 宇佐美の静かな声がなつかしい。
「すいません。アルバイトで時間がとれないんです」
 彼の前に立つと、高校の後輩に戻ってしまう。卑屈なまでの自分の、宇佐美への接し方はどうにもならなかった。
「そうか。おまえがなにを考えようと勝手だが、現代美術研究会の紹介者はおれだからな。恥をかかせるなよ。それと研究会の会費はオレが払っとく。おまえも大切な仲間のひとりだしな」
 うつむいてうなずきながら顔をあげた。
 目の前にいるのは、郷里にいたころの、あくまでも屈託のない、秀才らしい自信にあふれた、頼りになる先輩ではなかった。いつも世間を静かに睥睨へいげいするような光をたたえていた目は暗鬱あんうつに白濁し、浮遊している。
 そんな宇佐美がおどおどしながら連れの男をちらりと振り返ってからいった。
「いま、おれたちがどんな時代に生きているかだけは忘れるな。おまえならなおさらわかるはずだ。ちゃんと考えろよ。いいな」
 不自然なほどの高い声だった。

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