世を捨てて生きるつもりが……
日本文学を専攻すると、「隠遁文学」は学問として避けて通れないテーマのひとつだった。現代文学しか興味がなかったぼくには遠い存在であり、きのうまで平凡な高校生に過ぎなかった19歳の若造にどれだけの知識があったのか疑わしい。
級友のひとりが、たぶん、隠遁文学を熱っぽく語ったのだろう。黙って聞いていたもうひとりがかすれた声でいった。「隠遁なんて敗北主義だぜ」。それから先のふたりの青臭い議論は記憶にない。ただ、「隠遁=敗北主義」の考えが当時のぼくには新鮮だった。
年齢(とし)を重ねる過程で西行に魅かれた時期がある。しかし、日本文学を志した者にありがちなハシカのようなもので“敗北主義者”に甘んじたわけではない。それでいて、自分にとりつく4歳の幼子を縁側から蹴落として出家した西行の荒々しいまでの意志には瞠目する。これが敗北主義なのだろうか、と——。
そのときに詠んだという歌、「惜しむとて 惜しまれぬべき此の世かな 身を捨ててこそ 身をも助けめ」の中の「身を捨ててこそ 身をも助けめ(わが身を捨てこそ自分を救う道だ)」という言い草には首肯できずにきた。むろん、容易に非難はできないが、「自分をそれほどのものと思っていたのか?」との思いは捨てきれないままだった。以来、隠遁にはずっと距離をおいてきた。
70歳のなかばになり、さまざまな凶事に包囲されてしまった。精神的な孤立無援の自分を見つけたとき、これからは「世捨て人」として生きていこうと決めた。俗塵をむりに捨てたわけではない。自分の運命に素直にしたがっただけである。
隠遁あるいは世捨て人としては、どんな心構えで生きたらいいのだろうか? あわてて手元にある本を読み直した。あらためて知ったのは、日本の隠遁と、陶淵明に代表される中国の隠遁とはまったく異質のものだという。しばし、隠遁するのを先送りして、その違いを探ってみたい。
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