無意味な感傷ではあっても
片足で生きるカラスに愛惜を抱いてしまった。ぼくをよく知る友人がいれば、「また、おまえの感傷だ。しょせん、判官贔屓(ほうがんびいき)に過ぎないぜ」と嘲笑するだろう。そう、感傷に過ぎない。ただの判官贔屓である。
大人になってから、さんざんいじめられてきた。新しい組織へ入るたびにいじめにあった。理由はたあいがない。ひとことでいえば、ぼくの姿かたちが気に入らないというたぐいだった。しかたなく、耐えた。仕返しはしないが、彼らをいまも許さない。
カラスの獰猛さは何度か目にしてきた。ヒヨドリの幼鳥を襲ったときは息を呑んだ。自然の摂理なのだとわかっている。だが、死に臨んだヒヨドリの幼鳥の潔い姿が目に焼きついた。親鳥たちの悲痛な鳴き声と、運び去られていくわが子を追っていった姿、近くの電線に集まってきた数10羽のヒヨドリたち——これが自然なのかと瞠目したほど、どれもが人間くさかった。
それでも、カラスを心底から嫌いになれない。カラスなりの生きるための営為だったからだ。人間の悪意とは明らかに違う。悪意でしかない行為を、「ヤンチャをした」とか、「お行儀が悪い」などの卑劣なことばで糊塗しようとするいじめとは根本から違う。
世界各地であいも変わらず繰り返されている戦争という殺し合いも、隣人を力で排除しようとする悪意に満ちた意思のあらわれである。人間の歴史は戦いの繰り返しと殺戮の積み重ねだった。強い者が弱い者をひざまずかせてきた。勝者のみが正しい。それが人間の歴史である。
カラスに生まれたくて生まれてきたのでない。たまたま、嫌われ者のカラスに生まれついただけである。カラスとして生まれたからにはカラスとして生きていかねばならない。
嫌われ者はいつも弱者である。同じ弱者だけに、ぼくは即座に感情移入してしまう。まして、片足を失いながら野生を生きている。それだけで応援したくなる。
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