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墓に苦労する年齢

 きょうも暑い。冷房の効いた部屋でノホホンとしていると、タブレットに歌手の園まりさんが亡くなったという報が流れてきた。80歳だという。一度だけ、20代の彼女に、渡辺プロダクションの忘年会の場でインタビューしている。

 和服姿で応じてくれた。きれいな女性だった。NHKの『紅白歌合戦』へ出場できなかった年である。いまでは珍しくないような彼女の目の化粧に見入ってしまった。熱烈なファンの公私混同のインタビューは、まったく、突っ込みのない小さな記事となった。

 こう暑い日が続くと、いつ死んでもおかしくないと思う。いつ死んでもいいというほど、達観できていないし、アメリカの先住民のように、「死ぬにはいい日だ」と思えた日には、まだお目にかかっていない。

 今朝の散歩のとき、川沿いの道で、スマホを取り出し、道の脇の木立に止まったハグロトンボを写している、きっとぼくよりはだいぶ若いご同輩とすれ違った。彼が腕に提げているトートバッグに、何気なく目がいき、ああ、年寄りらしいなと思った。

 霊園の無料見学会でもらったらしいバッグだった。死んだ先のことを用意せざるをえない年齢になっているのはぼくも同じである。急務といってもいいだろう。自分の死後の始末はぼくなりに考えてある。

 遺体はゴミと一緒に出してくれればいい——と遺言を残したのは、『田中角栄研究』のジャーナリスト・立花隆氏である。さすがだなぁと思う。遺体などただの物体に過ぎない。なまじ遺骨など残るからその始末に困る。

 とはいえ、人それぞれに考えはいろいろなので、これ以上の“暴論”は差し控えたい。そんなことを考えながら、今朝、パソコンの電源を入れ、とあるサイトへ行き着いたら、石材店が出した横浜霊園の広告があった。ふたつの墓じまいを考えているわが身としては、世間には、自分たちの墓に苦労している方々が少なくないと知り、暗然としてしまった。

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