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老いた男はかくありたい

 あの人は会社を利用して自分の利益を得ることしか頭にない人間です——ぼくよりも、だいぶ若い、彼の後輩の声がいまも耳の底にこびりついている。

 やり玉に挙がっていたのは、とにかく評判の悪い人だった。しかし、ぼくにはそんな人には思えない。天真爛漫な性格ではあるが、彼を批判する人の真意がよくわからないでいた。

 引退後は「あれだけ弁がたつのだから、大学の先生にでもなって生きてくのでしょう」と評するむきもあったが、晩年、あぜんとするくらいの変わり身で引退していった。とうてい思いつかない、ある意味、みごとな変わり身だった。

 わるいとはいうまい。打算づくの人生もあるだろう。彼の本質を見抜けなかったぼくが甘いだけだ。そして、彼の後輩の批判をあらためて思い出した。やはり、「自分の利益しか頭にない人」だったのはたしかだった。

 その後も天真爛漫さは変わらないように見える。天真爛漫も老いた者だと傲慢になる。いや、きっと、傲慢こそが彼の気質だったのだろう。社会で苦労して、普通なら、その苦労が少しは役に立っているはずなのにまったく変わらない。

 きっと、これからも、相手かまわず、さらに勘違いして生きていくのだろう。いまさら、だれも気づけとは教えてくれない。助言があったとしも、耳を貸すまい。なんせ、本人が勘違いにまったく気づいていないのである。

 勘違いしたままで老いていく年寄りをたくさん見てきた。輝いていた昔をなつかしみ、そんな自分の幻影をさらに肥大化させて、いまもそうであるかのように勘違いしてしまう。ぼくもそんな「醜い老人」のひとりではないのかと不安になる。

 過去のささやかな栄光を、あたかも恥じるかのごとく相手に感じさせず、ただの“好々爺”として生きていく——簡単なようでなかなか難しい。せめて、いまの自分を悟り、余生という日々を屈託なく過ごす。そんな老人でありたいものだ。

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