見出し画像

おいしそうだったヘビイチゴ

 梅雨の季節になると田んぼのあぜ道を思い出す。真っ赤に色づいたヘビイチゴがとてもおいしそうだった。戦後の食糧難の時代、あのイチゴを食べたかった。年上の仲間たちから、ヘビイチゴには毒があると教わっていたので触ったことさえない。

 ぼくが育った杉並では田んぼが身近にあった。小学校も当初は田んぼにかこまれていた。近道するため、田んぼを通って通学した。ある日、その通学コースの一部が規制された。農薬をまくので危険だというのである。

 田んぼに生息していたありふれたあらゆる生き物たちが死に絶えた——のだろう。近づくのさえ、阻止されたくらいなので、そこは死のエリアになったはずである。

 まもなく田んぼが放置された。何年間も放置されたままだった。そして、農薬を忘れたころになって家が立ち並んだ。田んぼの水源である近くの善福寺川もすでに整備はされていたが、巨大なドブ川だった。水稲栽培のために田に引いてくるような水すら、もう、なくなっていたのである。

 善福寺川ばかりではない。当時の東京の川はどこも死の川と化していた。たとえば、水道橋駅やらお茶の水駅から見える神田川の汚れのひどさは筆舌に尽くし難い。

 太平洋のかなたにあるマーシャル諸島のビキニ環礁ではアメリカが水爆実験をおこない、死の灰をかぶった第五福竜丸事件(1954年=昭和29年)が起きて世は騒然としており、身近な農薬についてはほとんど問題にされなかった。

 だが、米をはじめ、作物に散布される農薬の恐ろしさはいまなお記憶に生々しい。とにかく、散布後は近づいてもいけないのである。ゲンゴロウやドジョウ、タニシたちを死滅させる農薬の凄まじさに、幼いながらおののいた。

 死の灰にくらべたら、当時は農薬などものの数ではなかったのかもしれない。だが、いまも、梅雨のたびに、近づくなといわれた「死の田んぼ」を真っ赤なヘビイチゴとともに思い出す。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?