命日前日に思い出す

 命日前日に思い出すくらい,あのときのことはもう,過去なのだろうか。
 そう思ったが,先日買い替えたパソコンを取り出したのは,何か書いておこうと思ったから。となると,まだわたしにとっては,この時期になると過去とは言えない,生々しい傷跡が,自分の中に残っているのかもしれない。

 平成27年2月14日。
 一緒に働いていた先輩を亡くした。いまだに病名ははっきりわかっていない。もはや生きていない方の病名が他人の私にわかったところで,なんになろう。
 ただ,わたしにできたことは,何一つなかったと思うくらいだ。


 9回目の命日だ。丸9年が経つなんて信じられない。


 先輩が倒れたのは平成26年の夏の終わり。
 ただ,はじめも倒れたという感じではなかった。「先生,なんか調子悪くてね~」という感じの。もともと先輩はあかるい方だった。私と同じ学年を組んでいた。ここのnoteをお読みの方はわかるだろうが,わたしは長く特別支援学級担任をしていた。このときは一人学級で,しかも1年生だったから,べったり交流学年に張りついていた。そのときの1年生の担任が,亡くなった先生だった。
 運動会で組立を子どもたちにさせたい,どの程度ならできるかな,教室で試しにやっていたのが,たぶん最後の授業になってしまったのではないかと思う。最後の集合写真は夏休み前のものになってしまったし。


 あの頃の私は浅はかで,
 自分ばかりが不幸だと思っていて(今もそのきらいはあるけれども),
 職場の様子を知らせれば,それが先輩への励みになるだろうと信じて疑わなかった。
 結果的にそれは先輩への励みになどならず,
 どれだけ検査を受けても何の病気なのかはっきりしないまま病状だけが進む状況が続いたようだ。私ははっきり聞けなかったのでわからないけれども(病名もわからなかったくらいだから),3回忌を前にご実家へ荷物をお届けに伺ったとき,「うつ状態になっていた」と聞いた。お母様が泣きながら話してくださった。だから到底,私に対する接し方も,普段の先輩とは全く違うと考えたほうが自然だろう。私はいまだに,先輩のことを思い出すと怖くてたまらなくなることがある。


 大人になってから,明確に拒絶されたのは,あとにも先にも先輩からだけだ。しばらくは,先輩との連絡手段として使っていたLINEも使えなくなった。
 結末はちゃんと知っている。復帰予定日が何度も延期され,とうとう帰ってこられなかったという,悲劇的で小説の終わりのようで,でもそれが現実だと思い知らされた,絶望だ。

 こうして何度も何度も振り返り,毎年のように文章を書いていても,
 わたし自身が書いた文章で記憶を上書きしているというか,あいまいなものがよりあいまいになり,
 事実起きたことではないことが,毎年毎年自分の手によって創作されて記憶されて,また曖昧なものになる。ますます,あのときのことは,覚えていられなくなる。
 命日すら通過しそうになった,そのくらい,わたしはこのことを,わすれたいのかもしれない。もはや縛られたくはないと。あの頃の私とは違うと,そう言いたいのかもしれない。
 今年,先輩が亡くなった年と同じ年齢になる。わたしたちは9歳違いだった。そのことを思うと,先輩ならびましたよ,と思うし,来年は,先輩,追い越しましたよ,になるのかもしれない。


 こうして書くのも,もうやめにしようかな。
 そう思ったのだけれど,どうせ酔った勢いで何かブログに書くかもしれないし,そうなるときっとわたしは酷いことを書きかねない。火曜日の割に早く帰ってこられたが,頭がはっきりしているうちに,ここに書き記そうと思った。


 S先生,今年もちゃんと,思い出しました。
 みんなは高校生になりました。入試も驚くほど全員志望のところに行けて,元気にやっています。
 わたしは,先生と一緒にいたあの学校の近くに,一人で暮らし始めています。
 そのうち,,,先生のところは駐車場が狭いから,お墓へ伺うのも一苦労なのですが,先生の誕生日,4月18日までには伺います。
 どうか,みんなのことを見守っていてください。




 もし,彼の世や来世というものがあるのであれば。
 最後の教え子を見守ってくださる,そんな先生の優しさが,死して戻ってきたのだとすれば。
 わたしが彼らの近況を伝え続けた意味は,あったのだろうなあ。
 先輩のこころを知る手立ては,永久にないのだけれども。


 追記,2月14日当日に。
 先輩の享年は43歳だった。つまり,今まさに,わたしは先輩と同じ歳だった。わたしの今年の誕生日はあと1ヶ月半後,そのときにわたしは,先輩の年齢を超える。

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