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古着と別れること

シャツの肘に穴が空いた。

長年着てきた、ワイシャツともポロシャツとも言えないような長袖シャツ。ほぼ白ではあるものの織り目がいい具合にアクセントになっているデザインで、着心地と見た目の良さが気に入っている。毎日着ていくほど頻繁にではないものの、3シーズンはOKな使い勝手の良さもあって、もう10年以上にもなるか、着続けていたのだけれども、ついに。

気に入ったもの、使い勝手の良いものはなるべく長く残してきた。それらが、ここ最近になって寿命を迎えそうになっているものが多い。

あるTシャツは襟がよれてしまっているが、着心地が良いので夏の部屋着として使っている。さすがにこれで外には出れない、とは自分でも分かっている。

ゴアテックスの靴は、防水性能が元の半分くらいになっていて、底のソールもつるつるだ。元の性能の半分も出せていないだろう。けれども、普段遣いとしては防水性も十分で、どうしても履き続けてしまっている。が、それももうかなり限界に近い。

いつぞや書いた普段使いのバックパックも、さらにほつれなどが酷くなってきて、やはり限界かと認識を深くしているここ数日だった。

ここらでいろいろなものを刷新する機会なんだろう。お金の面では、まあ仕方ない出費なのでそこまで固執するところでもないのだけれど、なによりも、自分が気に入る性能とデザインのものがなかなか見つからない、というところが面倒なところ。なんでも良い、というわけにいかない自分の面倒臭さが、時間と精神力を奪っていく。それを想像するだけで、面倒だな、と思ってしまう。

もっと買い物を楽しめば良いのだけど。いや、迷っている間も自分は楽しんでいることは事実。ただ、最後に決めるところに労力がかかるのと、決めたあとも「もっと良い選択肢があったのでは」と考えてしまうようなところが、自分事ながら面倒くさい奴だと思う。


長年、同じ服を着ていることについて考える。

正直、まわりの人は「またあの服を着ている」と思ったかもしれない。あるいは、襟周りや袖周りを見れば「くたびれた、古い服を着ている」と気づいたかもしれない。

ある人は、「周りの人に不快な思いをさせないよう、服は2年程度で買い替える」と言っていた。1シーズン着てはい終わり、というような人ではないことは知っているのけれど、それでも周りに気を使って2年程度で「着倒した」ということになるらしい。

自分の場合は、どうしてもそういった考えにはなれない。気に入ってはいないくても、買ったからにはなるべく着てやらないと、と思ってしまう。不快な気分にさせてしまったこともあったかもしれないけれど、服としての寿命を全うさせてやりたい、という自分のエゴを優先させている。

一方でここ最近は、気に入らなくなった服や使い勝手が悪い服は、あまり時間をおかずに捨てるか、売るか、別のものとして使うか、ということをするようになった。いずれにしても服としては捨てているも同然なわけで、結局は何でも自分のエゴの結果という、ようにも思える。


サマルカンドの駅を降りて街へ繰り出したとき、人出の多さに驚いた。聞けば、ナウルーズという春のお祭りをやっているらしい。そういえばその日は春分の日だった。長い冬が終わって春の訪れを祝う祭りに、国民の大部分が参加するそうだ。日本で考えると、そんな祭りがあるだろうか。あったとしても、元日の初詣くらいじゃないだろうか。

ナウルーズでは、それぞれの民族衣装で着飾る習わしだそうだ。普段とは違う装いをして、自分たちのルーツを表す服を着ている。色も柄もそれぞれにそれぞれの個性がある。今は染物や機械によるプリントが多いけれど、伝統的な服であれば刺繍を施した布でつくられる。

レギスタン広場も例にもれず、たくさんの人々が集まり、踊り、喋り、笑顔だった。歩き疲れた自分は片隅のベンチで休みつつ、広場のほうに目を向けると桜が目に入った。こっちにも桜はあるのか、と思いつつ、その桜にスマホを向けて写真を撮る少女の横顔が目に入った。とても楽しげな、綺麗な笑顔をしている。見れば、随分と立派な民族衣装を着ている。遠目にも、あれは本物の刺繍だろうな、と分かる。

次の瞬間、彼女が後ろを向くと、その服の一部はかなり色褪せていた。そういうデザインではないことはすぐに分かった。長い時間を経た衣服だけがもつ独特の色落ち。

そのときの自分の印象は2つだった。古くてややみすぼらしい、という側面と、ああ、なんて大切に着られた服なんだろう、という側面と。

どちらも自分にとっては本当のことだった。少なくても、自分にとってはどちらの認識もあった。そして、それは自分の中では両立していた。みすぼらしい、けれど美しい。

そして、それを考えているのは自分であって、きっと彼女はそんなことは気にとめていないのではないか。ナウルーズでその服を着ることは、彼女にとって幸せなことか、あるいは当たり前のことだったかもしれない。

自分から見える世界は、結局のところ自分の認識が作り出している。他の人がどう思っていたのか、ということまでも想像してみても、結局はそれも自分の認識であって、その人が考えていたことではないし、答えではない。

それなら、自分の信念を貫いたっていいのではないだろうか。

全部が全部ではなくとも、少なくともある部分については。


さて、このシャツをどうしようか。前身頃か後ろ身頃あたりから切り出した布で、台ふきんでも作るのが良いかもしれない。


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