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SNSの流れて消える情報にハマれない#25

ブランディング等の本を読むと、こぞって今はSNSが重要だと書かれています。

ITエンジニアをかじっていた私もWEBの力は素晴らしいものだと思います。
しかし、知人以外の発信するSNSに全くハマれません

例えば、何かとても良い発言をしてバズったとしても、その人の歴史や価値観が気になって、全部知りたくなります。
そして、過去のツイートを遡ると、ラーメンがうまかったとか、芸能スキャンダルがどうだとか、全然人間性が読み取れない情報が溢れていて、疲弊して読むのを辞めてしまいます。

結果、フォローもコメントも何もする気が起きないのです。

インスタでも、知人同士が近況報告としてフォローしあうのはわかりますが、たった数枚の写真で他人の写真にどうこう思う感受性を持ち合わせていないのです。

技術系の情報発信も見にくい

プログラミングなどでわからないことがあるともちろんググります。

ひと昔前なら、その界隈で活躍している方が纏めているサイトにたどり着きました。一つのテーマに絞ったサイトがあり、インストールから便利な小技までそれ一つで完結することが多かったのです。
ですが、今は違います。ほとんどブログ形式なのです。

こうなると、せっかく有益な情報を発見しても古くなっていたり、関連情報が頻繁にリンク先に任されていたり、すごくストレスを感じます。
Google検索画面に更新日付がなく、開いて初めて5年前の記事だったとわかることも多いです。

若者の価値観が理解できない

そんな自分が怖いです。

パソコンを使えないお年寄りを散々ディスってきた私が、SNSの価値観についていけていません。

TwitterやInstagramやTikTokで流れゆく情報にワクワクも何もしないのです。どうせ見るなら最初から最後まで見たくなるのです。
「まずは全体像を抑えて詳細へ」という価値観はもう古いのかもしれません。
ごく一部の情報を自分なりに解釈して、他人の価値観を組み合わせて、何となく今の自分を作り出す。そんな感じなのでしょうか。

よくネットニュースのタイトルだけで、中身が勘違いされたまま拡散されるのも似た類な気がします。

一部の情報では何もわからない

子供を虐待死させた犯人、暴力事件を起こしたスポーツ界隈、起きた時は散々騒ぐくせに、その結末がどうなったのかは誰も報じようとはしません。
というか、知ろうとする人が少ないから報道もされないのでしょう。

子供を育てるとわかりますが、虐待って他人事じゃないです。誰だって手をあげたくなる場面はいくらでもあります。

誰かを指導するときだって、手を出した方が早くちゃんと伝わるのではないかと思うことだってあります。

なのに、そういう人間の陰の部分にはフォーカスを当てず、当たり前な綺麗ごとだけを並べた陽の部分だけが物事の全てのように伝えられます。

抑え込まれた陰の部分がまた形を変えてネットに溢れます。

労害の始まりなのか、思想の確立なのか

そういう価値観の人たちが作り出すこれからのサービスを想像できなくなっている自分へ、もどかしさを感じつつ、こっちの方が正しいのだという変な確信も持ちつつあります。

高齢者を馬鹿にした労害という呼称が、自分に向けられるのも時間の問題かもしれません。

しかし、他人の価値観を全て受け入れるのではなく、自分は自分だという線引きも持っていきたいと思います。

SNSも変わるのかもしれない

私と同じ違和感をもつ人が多いのであれば、SNSも変わっていくのかもしれません。
自分をさらけ出しつつ、閉じられた範囲だけでコミュニケーションが取れる仕組みがあればいいんですが。。。

んー、知ってほしい部分、見せたくない部分、それが見せる人によっても変わるので難しいですね。

私が想像もつかない新しいSNSの形があるような気もします。

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