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方丈記とWaldenと知らんけど

厄災の多い令和の話を昨日書きました。厄災の話といえば鴨長明の方丈記です。”行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず”で始まる平安時代の3大随筆のうちの一つです。はるか昔に国語の授業で習った覚えがありますが改めて読んでみました。青空文庫に収録されているのでネットで無料で読むことができます。分量も短く2、30分もあれば読了できます。現代文版もありますのでこちらの方が読みやすかったです。

心を乱さず厄災を受け入れる。世の中には変わらないものはないこと理解する。固執せず変化は常と観る。物質ではなく本質を見る。

800年前に書かれた随筆ですが現代でも通じます。「無常」を説いている関わらず変わっていないというアイロニーなのはどういうことでしょう。「無常であることは常である」ともいえますし、実は無常でない本質もあるということでしょうか?

ボストンに住んでいるとき家の近くにWalden Pondという池がありました。その池のほとりに ヘンリー・ソローが住んでいた小さな庵があります。現存していて普通に中を見ることができます。ソローはWalden(邦題:森の生活)という随筆を書いています。こちらも世俗から離れ自然の中で欲、特に物質や人間関係、から自己を解放し人生の”骨髄”を啜りたいと記しています。ソローのこの随筆は奴隷制の廃止に大きな影響を与えたと言われています。

"I wanted to live deep and suck out all the marrow of life"

Walden. Henry David Thoreau

あることをあるまま受け取る。過剰に反応しないことは800年前の日本の鴨長明も200年前にアメリカに生まれたヘンリー・ソローも共通して話しています。現代に生きる今、モノも情報も溢れるほど提供されている私たちの生活。本当に何が必要なのかを考え、固執せず、過剰に反応しないことで”人生の骨髄”を啜ることができるのかもしれません。

長く都心に住んでいましたがコロナを機に東京都心から外房に引っ越しました。買い物も不便ですし近くにエンタメ施設はほとんどありません。レストランすらあまりありません。しかし海岸を犬と散歩したり、カエルの鳴く青々とした田んぼを自転車で走り抜ける時、心から安寧と幸せを感じます。引っ越しを機に持ち物も減らしたので私の所有物はスーツケース2つに収まるようになりました。仕事にも固執せずあるがままを受け入れ、怒らず、しかし希望は捨てず、無常であることを意識しながら社会と交わることを心がけたいなと思っています。そしてそのように感じていることさえ実は無常ですから明日には変わっているかもしれません。

「知らんけど」という言葉をお話しの最後にオチのように使う場合を最近よく耳にします。私はこの言葉、方丈記にもWaldenにも通ずる「受容」と「諦念」を感じており、大変いい言葉だなぁと思っています。このくらい軽く生きていくことができるのはいいなぁ。

知らんけど。


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