「聞く耳委員会」を作ろう

【私が所属するメノナイト教会の機関誌にエッセイを書きました。サークル・プロセスを実践して気づいたことを、キリスト教の言葉で綴ってみたものです。職場や学校など、教会以外の場面でも参考になるといいと思います。】

2018年の4月、メノナイト世界会議(MWC)の総会に参加したとき、「聞く耳委員会」という役職が紹介されました。代議員や役員、専門委員などの役職をもたない3人の個人が「聞く耳委員」に任命され、会議に参加します。委員は質疑や表決には参加せず、会議で話されたことや、大切なのに話されなかったことを注意深く聞きとり、聞きとったことを委員会報告にまとめて、会議の最後に報告するのです。聞くことに徹する人たちがいることで、参加者が話し合いにより集中でき、あまり注目されなかった声も丁寧に拾い上げられ、会議の成果がより複眼的に記録される効果があるわけです。

「聞く耳のある者は聞きなさい」(マルコ4:23)とイエスはいわれます。聞くことは、キリスト教徒の営みの中心といっていいでしょう。私たちは、聖霊に聞き(祈り)、聖書に聞き(説教)、教会に聞き(礼拝)、主にある兄弟姉妹に聞き(訓戒)、隣人に聞きます(宣教)。私たちが暮らす地域社会や国や世界の出来事に耳を傾け、この世に向けて発信すべきキリストの真理を聞きとろうとします。平和を告げ、恵みの福音を告げ、救いを告げ、神の国を告げる者になるように、という神の招きに聞くことから、私たちの歩みは始まります。

教会のあり方にとって、聞くことが大切であることは、どれほど強調してもしすぎることはないでしょう。どうして聞くことが大切なのか。それは聞くことこそが神の性質であり、私たちが神を知り、神とのあるべき関係をつくる唯一の回路だからです。三位一体の神は、父が子に聞き(ヨハネ11:41-42)、霊が子に聞き(ヨハネ16:13)、子が父に聞き(ヨハネ12:49)、霊が父に聞く(1コリント2:11)ことによって成り立ちます。互いに聞き合うこの全き意思疎通によって、神は「ひとつ」となるのです。人は、そんな「神にかたどって創造された」(創世記1:27)ものです。私たちの信仰はキリストの言葉を聞くことなしにはありえず(ローマ10:17)、イエスの弟子になること(ヨハネ15:8)も、聖霊を受けること(エフェソ1:13)もできません。

ここまで読んだあなたに質問です。あなたの信仰生活において、祈りや説教や宣教は「話すこと」でしょうか、それとも「聞くこと」でしょうか? あなたの教会では「リーダーシップ」と「フォロワーシップ」のどちらをより多く話題にしますか? あなたは教会で「聞き方」の手ほどきを受けたことがありますか? あなたの教会では「霊が諸教会に告げること」を聞くためにどんな工夫をしていますか?

おそらく一番の問題は、私たちが聞くことを当然視しすぎている(要するにナメている)ことだと思います。苦しみ悩む人を前にして「聞くことくらいしかできない」と感じることは、一見謙遜な態度に思えますが、「聞くことなど、特別な訓練がなくたって誰にでも(私にだって)できる」という思い込みの現れでもあります。聴力さえあれば、音は自然に耳へと入ってきます。しかし「聞くこと」は「聞こえること」と同じではありません。「聞こえて」いても「聞けて」いない、「聞いても聞かず」(マタイ13:13)ということがあるのです。

では、「よく聞くこと」ができるためには何が必要か、歴史的平和教会の仲間に学んでみましょう。平和主義で知られるクエーカーは17世紀以来、「はっきり委員会」という実践をしてきました。これは、悩みをもつ会員(中心人物とよばれる)の求めに応じて5〜7人の会員が集まり、2〜3時間、中心人物の言葉を徹底して聞く、というものです。「はっきり委員会」は中心人物から、聞いてほしい事柄をまとめた書面を事前に受け取って、準備します。会合では、「誠実で開かれた質問」をする以外、中心人物に一切話しかけてはなりません。その質問に答えるか答えないかは、中心人物が自由に決められます。この方法を守ることで、クエーカーは四百年もの間、聖職者も牧師ももたずに、会員を「牧会」してきたのです。

クエーカーの実践から、「よく聞く」ためのポイントを3つ指摘できます。1つめは、助言しない、ということです。そもそも話しかけないのですから、直接の助言は不可能です。「はっきり委員会」ではさらに「誠実で開かれた質問」という条件をつけることで、「質問に見せかけた助言」をも排除します。たとえば、「この問題をカウンセラーに相談しましたか?」という質問は、閉じた質問(はい/いいえで答えられる質問)ですし、これはカウンセラーに相談すべき案件だ、という審判(ジャッジ)を含む点で誠実ではありません。人はみな、キリストの性質を「内なる真理」としてもっている、というのがクエーカーの基本的信仰です。だから真の答えはその人の内にあり、本人が「内なる真理」に至れるよう寄り添うのが、共同体の存在理由なのです。助言するということは、中心人物に対して、私はあなたの「内なる真理」をあなたよりもよく知っている、とジャッジすることに他なりません。

2つめは、解決しない、ということです。中心人物の「内なる真理」をはっきりさせるために、聞くことに徹するのが「はっきり委員会」の仕事ですから、中心人物が抱えている問題を解決することは委員会の目的ではありません。委員会の成否は、解決という成果によってではなく、中心人物が自分の話を「聞いてもらえた」と感じられたかどうか、で判断されます。教会を訪れた新来者が、「話を聞いてもらえなかった」といって教会に失望し去っていくことは、残念ながら珍しくありません。でも「それはいけない」とばかり、教会が個人の問題を解決しようとすると、その人の問題解決能力や当事者意識(オーナーシップ)を損ない、教会(ひいては指導者)への依存を助長するおそれがあります。父権主義(パターナリズム)やハラスメント、カルト化の危険も増すでしょう。逆に、牧師や代表者ばかりが解決に奔走して疲弊し、自身が心身を故障するばかりか潜在的な後継者を怖じ気づかせ、教会の担い手不足に拍車をかけている可能性もあります。

3つめは、対話しない、ということです。ここで対話とは、直接向き合ってする言葉のやり取り(クロストーク)を意味します。嗜癖や使用障害からの回復のための12ステップ・プログラムではおなじみのルールですね。「はっきり委員会」では、委員が中心人物に直接話しかけることはもちろん、中心人物の話にコメントすることもありません。肯定的であれ否定的であれ、コメントは話す人に対するジャッジであり、その人の安心がコメントに左右される空気をうみます。当意即妙にコメントできる人が場を仕切れば、聞かれる人と聞かれない人の格差もうまれます。前述のサークルプロセスも、参加者間で直接の対話ができないように組み立てられています。参加者は自分の番がきたら、自分のことだけ、自分にとって大事なことだけを話します。特定の参加者に質問・反論・応答することはできません。

それでは意味がない、と感じた人がいるかもしれませんね。助言も解決も対話もしない。発言に反論も訂正も同意もしない。ヤジも拍手も慰めのハグも禁止。じゃあ一体「聞く耳委員会」は何をしてくれるのでしょう。決まってます、聞いてくれるのです。じっくり、深く、聞いてくれるのです。それだけです。それじゃダメですか? だから言ったでしょう、私たちは聞くことをナメているって。「聞く耳」さえあれば、人は「内なる真理」と出会い、自立した信仰を育み、傷を癒し、関係を修復することができることを、私たちは信じきれていないのです。

アメリカの牧会神学者デーヴィッド・アウグスバーガーは「聞かれることと愛されることは、普通の人には見分けがつかないくらい近い」といっています。よく聞くことを実践しようとして、教会が尋問・査問・審問の場になってはいませんか。教会員の信仰的自立をうたいながら、会員に代わって問題を解決するのが「牧会」の働きだと思い込んではいませんか。親切心のつもりで「あなたも教会に長くいればそのうちわかりますよ」とか「それはもう以前やってみたんです」なんてコメントしてはいませんか。

教会が「聞く耳」を真剣にもちたいと思うなら、助言しない・解決しない・対話しない、というところから始めるべきです。これまで聞こえなかった声を新たに聞きとろうとするなら、新しい「聞く耳」が必要だからです。教会における性暴力やハラスメントの問題は、従来の「聞く耳」がいかに被害者の声を聞き流し、黙らせ、恥じ入らせ、脅かしてきたかを示しています。一方、「聞くこと」に徹することにはメリットもあります。助言しないということは、「聞く耳委員会」に専門知識はいらないということです。解決しないということは、成否について責任を負わなくていいということです。対話しないということは、相談者の資格や相談内容についてルールを設けなくていいということです。そもそも、「誰の・どんな話を聞くか」を決められる権限を聞く側がもった時点で、そこは相談者が安心して話せる場にはなりえません。教会の中に平和と正義をつくり出すには、「聞きたがられないが語られるべき声」を聞くことができる「聞く耳」が必要です。

日本では、「聞く耳委員会」と方向性を同じくする活動が、すでに教会の外で始まっています。たとえば「レンタルなんもしない人」は、自分の存在(プレゼンス)を貸し出す仕事をしています。レンタル料は一万円、交通費など経費は実費、飲食と簡単な受け答え以外は「なんもしない」のですが、花見の場所とりをしてほしいとか、大掃除を(手伝うのではなく)見守ってほしい、自分が作った料理を一緒に食べてほしい、といった依頼に加えて、趣味の話や人に言えない過去、親しい人には話しにくいことをただ聞いてほしい、という依頼もあり、予約が殺到しているのだそうです。もっとすごいのは「風の電話」です。岩手県大槌町の丘の上にある私設の電話ボックスで、線のつながっていないダイヤル式黒電話とノートが一冊あるだけですが、東日本大震災の被災者など多くの人が訪れ、死別した家族への思いを電話に向かって語りかけるのだそうです。いわば委員のいない/いらない「聞く耳委員会」です。レンタルさんも風の電話も、助言せず、解決せず、対話しません。それでも、というよりそれだからこそ、人々は彼らを通してニーズを満たされ、前に進む力を与えられ、人生を自分のものとして捉え直すことができるのだと思います。それは、教会がこの世に遣わされていることの意味と、決してかけ離れたものではないはずです。

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