さあ、3連休だ
明日から3連休だ。
帰宅後、コンビニで購入したビールとチキンフライを食いながらビールを飲んで、この文章を書いている。
ビールもチキンも最高にうまいのだが、どうも「最高!!」と叫びたくなる程にはテンションが上がって来ない。
というのも、そんなに労働というものが苦ではないというか、、、いや辛いし面倒だし日々のリソースの殆どを労働に持っていかれるのは釈然としないし、それで利益を得る経営者を恨めしく思うこともあるけれど、そんな事を嘆いているよりも、給料を得て日々の生活を成り立たせることの方が重要だし、仮に労働から解放されたとして、今の自分に何ができるかと思うと、せいぜいしがな一日釣竿を握ってぼけっとしている姿しか想像できない。
いやいや、それが悪いとかではなく、それはそれでいいのだけれど、やはり私は人と関わっていたい。
怒られたり、理不尽なことを言われたりすることもあるけれど、他愛もない冗談で笑ったり、噂話に聞き耳を立てたりする楽しさは人との関わりの中でしかできないでしょって話で。
つまり、私には仙人のように生きる資質がなく、ごく一般的な生き方しかできないのだ。
なので休み前、労働からの解放を目前にしてもテンションが上がってこないのだ。休日こそが本当に自分デビュー、というような気持ちにならにのだから。
昔はそんな人間じゃなかった。この世の悪徳は労働だと思っていた。自然状態が至高だと、それを目指そうと思っていた。エアコンの効いた部屋で過ごしながら。
ただ悲しいかな、今は休日前でもテンションが上がってこない。少なくとも狂喜乱舞する程でない。ああ、これはあれか、加齢によって発生するという「働いていて当たり前現象」なのだろうか。
◆
一説によれば人間歳を重ねると働いていることが当たり前になり「働きたくない」という感情に至らなくなるという。
そんな言葉を聞いて釈然としない思いを抱きながらも、皆が心からアンチ労働ならば労働で成り立っているこの社会は崩壊するだろうなと、大人は働いていて当然という認識を抱いていたのはまさしく子供の頃の自分ではないか何で自分が大人になる番になってそれに疑義を持ち出すのかそれは矛盾していないか、、、、つまり労働は正常な現象なのかも知れない、と考えていた。
がしかし、現実は違っていた。
月曜の朝は死にたい、金曜の夜は最高、そんな日々がもう何年も続いていた。
仕事上でたまに起こるあれこれも、クソみたい気分も、俺が苦虫をいくら噛み潰そうとも、それでも日本が成り下がっていく様も、敗戦国ってこと、人を殺す力がない人は結局人に殺される、みたいな世界が、とにかくもう全部全部大嫌いだった。
それでも月日は流れて、嫌なことからは逃げる性でよかった、度重なる転職や無職期間や職場での挫折や諦めを経て、ようやく負け犬として居場所が見付けられた。
ああ、そうか。
働いて当たり前って、負けて当たり前ってことなのか。
くそ、くそ、くそ、悔しいけど、生まれた瞬間から勝つなんてなくて、上手く負けるしかないんだなと、思った。
ならば自分は割と上手く負けられる方なのでは?
そう思ったら、仕事もそんなに嫌でなくなった。
最終的には上手く負けられるのだから。
◆
著名人や運動選手が自死する度に思う。「働いていて当たり前」はいつ死んでも当たり前という当然自然の道理を受け入れたということなんだと。
ただ、いつも思うのは、
戦ってどうする。勝って何の価値がるんだってこと。
ずっと、釣竿でも握って海を眺めてられたらいいのにな。
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