見出し画像

「主客未分の純粋経験」再考

外界を認識するには外界を分節するための言葉(言語)が必要だ。それ故、言葉によって外界を分節することのできない動物たちは外界を本能的に捉えることができても外界を意識的に認識することはできない。

西田幾多郎は主著『善の研究』において思慮分別が加わっていない(すなわち言葉で外界を分節する以前の)主客未分の状態、すなわち主観・客観が区別される以前の直接経験を「純粋経験」として極めて重要視している。しかしながら外界を言葉で分節する以前の直接経験によって捉える外界とは、実は言葉を持たない動物たちが普通に”経験”している状態のように思える。

そのような状態を「純粋経験」などといかにも深淵で意味ありげなターム(哲学用語)で表現するのはいかがなものか。主客未分の純粋経験でによって捉えられた外界が果たして真の実在と言えるような存在なのであろうか。言葉によって分節される以前の外界は強いて言えば「混沌としたマグマ状のもの」とでも形容したほうがむしろ現実に近いのではないだろうか。

言葉を使おうが使うまいがヒトを含む高等動物が外界を捉えるためには感覚器官を使わざるを得ず、その五官(目、耳、鼻、舌、皮膚)は結局脳に支配されている。その脳の機能や構造もDNAの塩基配列によって決まるのであれば、西田の言う「主客未分」の状態であっても私たちは決して外界をいかなるフィルターも通さないで純粋に捉えているわけではない。

要するに外界を捉えるには2通りの方法があるということだ。1つ目はヒト以外の動物たちのように言葉を媒介せずに本能によって外界に直接働きかける方法、2つ目は私たち人間のように言葉によって外界を分節することにより外界を主観というフィルターを通して認識する方法だ。

なお、言葉を自在に操る私たち人間だけが時間の観念を生み出すことができる。すなわち常に「現在」という瞬間の中でしか生きられない動物たちとは異なり、人間は「現在」の他に「過去」および「未来」という時間の概念(それが実在するかどうかは別として)を有することができるということだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?