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『昭和の良き日々・子供の危険な遊び』  第3章 いしもと弘文の履歴書

祖父と八幡市黒崎駅前商店街

 八幡市黒崎地区は江戸時代から長崎街道の宿として栄えていました。有名な『桜屋』は旧『薩摩屋敷』で参勤交代の時の薩摩の殿様の常宿として黒崎宿の繁栄を支えました。

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 私の祖父は西南戦争の舞台となった熊本で次男として生まれました。当時政府の移民政策従って次男・三男などは強制的に家を出ることになっていました。俗に言う『口減らし』です。何しろ日本中が貧乏のどん底で暮らしていましたから。当然、祖父と三男はブラジルに渡るために当時、ブラジル丸と言う定期便が芦屋から出ていました。芦屋に向かう途中、黒崎にて宿をとることになりました。そこからは運命の悪戯で祖父は黒崎に残り、三男は1人寂しく船に乗ることになりました。

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 私は子供の頃から自転車が得意で、よく中央町から黒崎まで祖父のいる店に行くのが好きでした。車はほとんどが営業用で道路を走っても危険はなかったと思います。30分もすると古びた店が軒を並べる黒崎商店街に着きます。確か丸玉デパートという二階建ての細長い各種店が仕切りで隔てある零細商店の集まりでできてデパートと名乗っていました。祖父の店は黒崎駅前の商店街の入り口のすぐ近くに小さな店を構えていました。店の中央の通路を抜けるとすぐに最初に目につくのは店の三倍はある土間であり向かって左側には大勢の店員のお腹を満たす料理場で大きな釜や道具が並べて置かれていました。土足で店の奥まで入れて右側には板張りの『上がり框(|かまち)』と呼ばれる段差で御用聞きが腰掛けられ、お茶が飲める床が奥まで一面に作られていました。当時は全ての店が木造三階建ての違法建築でしたから。祖母が二階から降りてくる、笑みを満面に、『よう来た、よう来た。』と言って必ず小遣いをくれました。その後小遣いを目当てに何度も訊ねることになるのだが、祖父の姿を見ることはなかった。子供でも段々視野が広がっていくのが分かる。その後祖母とは黒崎の店で小遣いを貰うこともなくなった。

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子供は時に危険な遊びをする

 時には子供は危険な遊びを楽しむ。遊び場は商店街の周辺に決まっていた。必ずグループに分かれての喧嘩遊びになる。商店街の真ん中に大きな公園ぐらいの空き地が遊び場になることもあった。自然に住んでいる地域の子供たちを中心に仲間を二つに分かれての土投げ合戦の始まりになった。当然土を投げやすい大きさに丸めて投げるのであるが、適度に水を含ませないとうまくできない。子供の知恵である。投げる的は敵方の顔であり体である。一斉に土の塊が飛び交う。私は的に当てるのが何故かしら得意で敵の頭に当たるのを見ては仲間と一緒になって大喜びする。調子に乗って投げ続けた。もちろん敵方の土も飛んで来る。一番年上の先輩が何か叫びながら手を高らかに上げた。全ての子どもは何を意味しているかルールはなくとも知っていた。すぐに中止となった。私の後輩が頭を抑えて蹲っている。血も吹き出している。先輩の命令で後輩がその子の親の店に走った。他の子供たちは当然、あちこちに逃げ出し素早く姿を消した。
その後、怪我をした子供の親が父の店に怒鳴り込んできた。
『お前の子供の投げた石で頭を割られた』と、親父は冷静そのもので、 『誰の投げた土の塊か分からないのに何故ウチの子供が投げたと分かったのか』と問いただしていた。
誰も当たるのを見ていないので誰が投げたか分かる訳がない。相当数の土の塊が飛び交っていたので、分かっている事は多分土の塊の中に石が混じっていたのだとは簡単に理解はできる。
先輩の一声で犯人が決まったのだから、今更、犯人探しも意味がない。  その親父も『話にならん』と言って怒りに任せて帰っていった。
実際の所、私にも分からない。その後、その怪我をした後輩から恨まれたことはない。仲間からは英雄扱いにされ『土投げの名人』と称えられたが、その後一度もこの遊びをする仲間はいなかった。             
その苦い思い出を決して忘れることはできない             画像5

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