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『昭和の良き日々・中央区商店街』    第2章 いしもと 弘文のプロフィール

『遊び場は中央区商店街』 

(上の写真の左側の靴磨きのおばさんには良くお世話になりました。昔は多くの靴磨き屋さんが仕事をしていました。その裏に丸物デパートがありました。右側には石原裕次郎の映画ポスターが立てられています。日活・東映・東宝・松竹・名画座・名も無い映画館が立ち並んでいました。いつも、立ち見席で観賞です)

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 この商店街は私を生まれ育ててくれた、全ての私の性格を形作った唯一の場所です。私が物心ついた時には、この商店街及びアーケードは全ての子供にとって唯一の遊び場であった。雨の日でさえ遊ぶことができた。    親父に聞くと戦後3年目の昭和23年(1948年)に焼け野原の旧商店街の後に本格的なショッピングセンター『八幡中央区商店街』が形作られたそうです当時全ての異業種・娯楽施設が同居していました。丸共通称丸物デパートが商店街の入り口に陣取っていました。私がよく覚えているのは、その商店街に沿って空を覆い隠す近代的なアケードが昭和37年(1954年)に建設された後の話になりますが。

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日本で最初のアーケードと自慢していますが、此処だけの話ですが、当時公の許認可を受けていない法律違反の建物でした、まさか行政も『壊せ』とは言えないでしょう。しかし、日本で最初のアーケードは認可を受けた小倉銀天街に譲りますがね。今でも商店主は自慢げに隠れて夜中に作りあげた『日本一のアーケード』と話しています。敗戦後、生残って帰還した兵士の塊ですからね。恐る物は何もない時代です。ヤクザさえ、闇市の時にはヤクザの縄張りではショバ代としてカネを取ったそうですが、その後、商店主が集まって『八幡中央区商店街協同組合』をつくったそうです。        八幡製鉄所を筆頭に関連中小企業・各種研究所・下請け・孫請け零細企業まで、全ての大手商社が本事務所の周りに軒を並べる、約30万人以上の人々が生活をしていました。毎日多くのお客様で商店街は潤っていました。

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『子供は遊びの天才である』

 何も習わなくても先輩たちは遊びを作り出して教えてくれる。私は先輩にくっ付いて共に遊んでくれるのを待つだけでよかった。テレビもない時代にラジオを聞いて楽しんでいたのはお年寄りだけだった。もちろん、子供はアーケードに上がって危険な遊びも『へっちゃら』、大人も『この馬鹿者』と怒る者もいない。子供は直感的に危険は察しできる。良い先輩も悪い先輩さえ区別できる。毎日違う遊びを教えてくれる、同じ遊びでも全く飽きたことがない。まだ小さい子供のことだ、狭い商店街しか遊び場はない。まだ冒険はできない。

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  ある日のことである。いつもの通り、親からもたった小銭を手に例の如く遊びに出ることになる。十人ぐらいの同じ歳の子供と先輩一人に出会う事になる。先輩を先頭に皿倉山へ初めての遠出である。誰も疑う者はいない、怖いと思う者もいない。1メートル以上の草で覆われた道無き道を集団で掻き分け登って行く。何と愉快なことか。当時は皿倉山ケーブルカーもなかった。中腹まで来ると先輩がいつも溜まり場として使っているのだろう小さな隠れ場が見えた。その隠れ家も草で覆われて獣道のすぐ側にある。子供たちにとって初めての場だった。先輩が座り込んだ、私達も丸くなって自由に勝手に座っていった。残念だがどんな会話がされたか一切思い出せない。確かに言える事はみんな笑顔で楽しんでいる事だ。我々だけの秘密の隠れ家だ。誰にも教えない協定を結んだ。男だけの協定だ。真ん中に土を掘ってみんなの大切な物を埋める。私は何もないので今日貰った小銭を投げ込んだ。他の物も何か作業を続けた、何か証に念じの歌を口にしながら。我々は同じ秘密を共通している仲間だ、強い絆で結ばれている。何かの秘密結社の様に仲間意識が強まった。知らない内に、いつの間にか月が出て暗闇に襲われた。先輩は黙って明かりを点した。はっきりと仲間の顔が見えた。何か一人が語り始めた、次に誰かが語る。私の番が回って来そうになった時、突然音もなく声が聞こえた。私には良く聞き取れなかったが、確か『何をしてる』と言う穏やかな声だと思うが、今だにはっきりと声質だけは耳に残っている。  聞こえた瞬間、全ての緊張が溶けた。一斉に仲間10数人が逃げ出した。何も分からない、仲間も分からない。先輩はどうしたのだろう。皆バラバラに声も上げずに山を駆け下りた。後は絶対に振り返らない。商店街の明かりが見えてきた。誰もいない。誰も見ない。仲間はどこに行ったのだろうか。皆は、どのルートを通って逃げたのだろうか。何にも思い出せない。確かな事は捕まらない様に急いで逃げたことだけは分かる。誰も後を追っかけて来る者はいないのに。大急ぎで家の中に戻った。家の者は誰一人、何があったか尋ねる者もいない。何故私たち仲間は逃げたのだろうか。大人には理解できる事だが、子供には分からなかった。意味もない動物の反射的行動だったのだろうか、子供心にも悪戯だと思ったのだろうか。           その後、絆を結んだ仲間とは会っていない。あの良き先輩は誰だったのか未だ思い出せない。同じ仲間も名前さえ思い出せない。顔さえ思い浮かばないもう二度とあの時の思いは出来ないのか。寂しい不思議な感覚に襲われた。 なぜ仲間に会えなかってのかは、子供心に今でも不思議に思う。  明日は、いつもの通りに商店街の子供らと遊ぶことになる。       今日も南側から皿倉山が我々を見つめている。新たな生活が始まる。

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今振り返ると、子供心に小さな大人への反抗だったのか、しかし大人の社会では受け入れない行動をとったことは事実である。何か子供心に共有する意識が芽生えたのだろうか。人生で一度だけの経験である。

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2020年6月20日                           中央区商店街北入口、左側の自転車置き場に靴磨きの叔母さん達が仕事をしていた。その裏に北九州一の丸物デパートがありました。        現在歯科クリニックが営業しています。





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